九州(福 岡 県)」カテゴリーアーカイブ

医王寺旧参道石畳  上毛町西友枝 ( 福岡県 )

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医王寺旧参道石畳  上毛町西友枝

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。上毛町地役場前の県道109号を南へ進み、土佐井交番の分岐は右へ。京筑アグリラインと交差し、県道をそのまま小学校跡の西友枝体験交流センターゆいきららまで行く。角に「松尾山修験道遺跡」案内板があり、右折して松尾川沿いに約3km進むと、終点の駐車場に着く。

「医王寺旧参道石畳」のある場所は、上毛町ガイドブック「上毛の宝」松尾山修験道跡散策マップの青囲線を参照。祇園社中宮石段下の二ノ鳥居前から右の旧参道に入る。
松尾山は標高471m。当日は夕刻、濃霧がひどく小雨となり、デジカメも内部から曇って石畳をはっきり写せなかった。後日の機会に差し替えたい。5枚目写真は二ノ鳥居手前参道の石畳(年代が新しい?)。 

医王寺旧参道石畳 いおうじ
(築上)上毛町 松尾山 石畳道 長約80m,約1.0〜0.8m 江戸期 町教委 不使用だったため、良好に保存 下部は、上面を平らに加工した小ぶりの石を敷き詰める 1 C

土佐井の梵字大石・磨崖仏  上毛町土佐井 ( 福岡県 )

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土佐井の梵字大石・磨崖仏  上毛町土佐井

上毛町ガイドブック「上毛の宝」による説明は、次のとおり。上毛町役場前の県道109号を南に進み、交番の分岐は右へ。京筑アグリラインの交差点を過ぎると、すぐ県道の右手脇にある。

土佐井磨崖仏

菩薩形をした高さ40cm前後の像が彫られています。鎌倉時代末から室町時代頃の作で、現在確認できるものは数体程しかありません。周辺には山伏たちの峰入りコースや梵字が刻まれた大石、銅製経筒が出土した経塚があることから、松尾山修験道に関連する遺跡であると考えられています。

友枝瓦窯跡  上毛町土佐井 ( 福岡県 )

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友枝瓦窯跡  上毛町土佐井

上毛町ガイドブック「上毛の宝」による説明は、次のとおり。上毛町役場前の県道109号を南に進み、交番の分岐は右へ。京筑アグリラインと交差する約500mほど手前から新池や大迫池の堰堤下を通る農道に右折して進むと、大迫池先の山地斜面に「友枝瓦窯跡」があった。
現在は史跡保全工事中のため立入禁止だったので、内部写真は同ガイドブックのを載せる。

友枝瓦窯跡  国指定史跡

奈良時代に現在の町立南吉富小学校付近に建立されていた垂水廃寺へ瓦を供給するために造られた地下式の有階有段登窯です。内部には瓦を置くため、階段状の段が17段設置され、最上部に煙出しの穴が二つ開けられています。朝鮮半島の新羅系や百済系の瓦が出土しています。

旧勅使道  上毛町大ノ瀬 ( 福岡県 )

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旧勅使道  上毛町大ノ瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道10号沿いの「道の駅しんよしとみ遺跡前」は、史跡一体型の道の駅である。後ろ側に広大な国指定史跡「大ノ瀬官衙遺跡」があり、遺跡前とこの道の駅との間に直線的に伸びる町道が、「旧勅使道」だと上毛町役場から聞いた。

旧勅使道 ちょくしみち
(築上)上毛町 道路 幅約3.0m 律令期 町教委 住宅街の中に不連続に残る/舗装道 不連続ながら全体的には直線性を保持し、古代官道の雰囲気は感じられる 3 C

小原の眼鏡橋  黒木町大淵 小原 ( 福岡県 )

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小原の眼鏡橋  黒木町大淵 小原

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。私は山鹿市から国道3号と県道13号により福岡県八女市黒木との県境鹿牟田峠へ向かい、同県道を黒木大淵橋へ下っていた途中、小原で旧道に架かるこの石橋を見た。

№1,031  小原の眼鏡橋

黒木町大淵 小原
橋長:16.5m  橋幅:3.2m  径間:10.8m  拱矢:3.8m
架設:大正12年(1923)
黒木町支所前から国道442号線を南東へ7Km、県道13号線へ右折。1.2Km先右手に架かっています。

黒木町大淵の道標  八女市黒木町大淵 ( 福岡県 )

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黒木町大淵の道標  八女市黒木町大淵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。

黒木町大淵の道標 くろぎ、おおぶち
八女市 鹿牟田峠<矢部街道> 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 WEB 原位置 (正面)「右 肥後/左 矢部、道」 1 C

サイト更新情報によると、「・黒木町大淵の道標: 新規追加 (2015.4.12)」とあり、最近登載されたものである。山鹿市から県道13号により県境「鹿牟田峠」へ行った。現在の峠には、昭和4年11月福岡県が設置した「福岡・熊本 縣界標」しか見当たらない。
地元で聞き込みをすると、福岡県側の峠やや手前の谷間旧道に「追分石」があると言う。ビニールハウス角のその場所を訪ねると、横倒しになった年代不詳の「右いわの道 左やま道」と刻む石柱があった。高さ90×横23×奥行20cm。昔、相撲の力石にされていたそうで、原位置から少し南へ動いている。
「右いわの道」とは、現在の山鹿市鹿北町中心部「(肥後)岩野」のことだろう。

サイトの道標は、刻面からこの「追分石」ではない。黒木町大渕橋まで下ると、大渕橋脇に新しい丸石の道標があった。大正年間(石裏面に年号あり)の設置で「右ひご 左やべ 道 日向神」と刻む。この場所は、過去2回の水害に遭った。サイトの道標は、この流失した先代の石とも考えられ「市有形民俗」とあったので、八女市文化財担当へ現地から電話問い合わせしたが、対象と場所がそのときはすぐにはわからなかったので、調査保留とした。

この項はうっかりしていたが、本ブログ次を参照。「笹又の道しるべ(西園橋三叉路) 八女市矢部村矢部」
https://misakimichi.com/archives/4522
資料としたHP「矢部村の歴史」矢部村の開発の項による説明に、「現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。」とあったのを思い出した。

今、長崎の自宅へ帰って考えると、これは私の場所間違いだったようである。 HP「矢部村の歴史」に記す笹又の道しるべに関連した「嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて」ていうことは、「牟田峠」ではなく、現在の「無田峠」であって、もちろん「鹿牟田峠」ではない。

地図を見ると県道13号小原から南東の谷間に黒木町大淵「無田集落」がある。谷を登りつめると「無田峠」が確かにあった。この道も昔の主な街道だったのか。HPには「道しるべ(黒木町牟田)」の現地写真が掲載されていた。  http://www.snk.or.jp/cda/yabemurasi/2rekisi/kaihatu.html
サイトも私も、「牟田峠」(無田峠)を「鹿牟田峠」と勘違いした調査をしたようだ。刻面も「右肥後道・左矢部」ではなく、「右山道・左肥後道」が正しく、これからすると、道標は現在の無田峠ではなく、集落を過ぎた山道登り口にあるのではないか。

八女市黒木地区の市文化財指定「道標3基」は、八女市HPに所在地「黒木町大淵無田・本田・土窪字栗林」と内容があり、「大淵無田」の写真道標に間違いないようである。所在地「本田」とすると、大渕橋脇の新しい大正年間の丸石道標となるが、昔の道標は水害で流失したと地元で聞くから所在不明で、これは近世以前の遺産リスト対象外となる。
幸い「大淵無田」の道標写真は、八女市教育委員会教育部文化課文化財係が1年ほど前に撮影した画像を所持しておられ、提供を受けた。これが最後の写真3枚である。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。

黒木町大淵の道標(無田峠の道標) くろぎ、おおぶち 八女市 無田峠 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 市教委 原位置 (正面)「左 肥後道」、(右面)「右 山道」 1 C  

小石原焼と小鹿田焼の里(1)  福岡県東峰村・日田市 ( 福岡県 )

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小石原焼と小鹿田焼の里(1)  福岡県東峰村・日田市

ゴールデンウイークの5月4日(月 みどりの日)、東京から帰省中の長男を熊本まで送りがてら、妻が福岡県東峰村の小石原焼民陶むら祭と、日田市の小鹿田焼の里へ。太田哲三窯と高取窯を主に見た。写真は妻撮影。

栗林の道標  八女市黒木町土窪字栗林 ( 福岡県 )

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栗林の道標  八女市黒木町土窪字栗林

八女市の指定文化財一覧(PDFファイル)による説明は、次のとおり。3基のうち、八女市黒木町土窪字栗林の道標は、笠原川左岸を行く旧矢部街道が、現在の田代へ行く県道127号と交差する少し手前にある。
町指定当時の看板が、やや離れたところに設置されておりわかりにくいが、道標は現地写真黄囲線どおり、木工所角の杉の植え込みに隠れてある。

85 黒木 道標 市 3基 有形民俗文化財 八女市黒木町大淵無田・本田 土窪字栗林 八女市

ブログ「千寿の楽しい歴史」による説明は、次のとおり。

矢部往還後半(黒木町・矢部村)  平成25年3月9日(土)
昨年(平成24年3月10日)は柳川の札の辻から七里石(八女市黒木町土窪串毛)までを回りました。今回も柳川市から出発して七里石入口から矢部の方向へ進みました。
栗林の道標  
七里石から約2km行ったところにある。この石柱には西面に「左大淵」、「右田代」と刻まれています。
「八里石」は木屋町原の土中に埋まって分かりません。「猫尾城跡公園」で休憩する。

打越の儲開記念碑と隧道古酒  八女市上陽町打越 ( 福岡県 )

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打越の儲開記念碑と隧道古酒  八女市上陽町打越

八女市の上陽町から黒木町へ出る県道70号の途中で見かけた。県道脇打越の儲開記念碑と、その谷間の隧道古酒。
「儲開記念碑」は説明板のとおりだが、遺構がどこに残るかわからなかった。隧道古酒「須々許里」は、旧矢部線の中原トンネルを利用している。黒木側の入口にも柵がしてあって、「古久蔵」ていう看板があるらしい。
HP「ふる里の蒸気機関車」VOL36 による説明は、次のとおり。

もちろん矢部 まで行くつもりやったケン「矢部線」

矢部線は、終戦直後の昭和20年(1945)12月26日に、鹿児島本線の羽犬塚駅(福岡県筑後市)から黒木町までの19.7kmば結んで開業した。なんと終戦から4ヶ月目で開業ていう早業。
日本の鉄道では終戦後初めて開通した記念すべき路線やった。矢部線の目的は、戦後の復興に必要な木材ば矢部から運び出すこと。そやケン、矢部村まで延長する計画やったし、そやケン、名前も矢部線やったとタイ。 しかも、矢部から鯛生金山ば経由して、宮原線の小国まで繋ぐ夢もあったらしかケン、凄か。

ちょっと待って

矢部線のでける前は、ほぼ同んじルートば、明治36年に開業した軽便鉄道が走りよったらしか。この軽便鉄道は南筑鉄道いうて、羽犬塚〜山内で営業ば開始しとる。その後山内〜黒木ば開業しとった黒木軌道いうとば合併して、羽犬塚〜黒木の路線ば運行しよったとゲナ。この路盤があったケン、矢部線はたったの4ヶ月で走らせることがでけたとタイ。

県境ば越えて小国まで走ろうかていう壮大な計画も、実現せんまま矢部線は赤字路線になってクサ、国鉄再建法の第1次特定地方交通線に指定され、昭和60年にとっとと廃止されてしもうた。
赤字になるたぁ当たりまえ。人間は並行して走るバスのほうが便利やし、山ん中から伐りだした材木もトラックで運ぶごとなったけんタイ。廃止後は全線がバスに転換され、廃線跡はバイパスとして利用されるごとなったていう訳よ。

中原トンネル
トンネルの北側入口には「隧道古酒・須々許里」ていう看板と柵があって、とうせんばっちょしとる。
須々許里(すすこり)いうとは、もともとは古事記に登場する酒造りの名人の名前バッテン、いまは、このトンネル内で5年間長期低温熟成させた純米古酒の銘柄のこと。
廃線のトンネル内は光が全く入らず、夏でも18度以下で貯蔵できるケン、酒はまろやかで、香りも上々ゲナ。いつも約2万本が眠っとるていう。

寄 口 橋  八女市上陽町北川内-上横山 ( 福岡県 )

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寄 口 橋  八女市上陽町北川内-上横山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,042  寄口橋

八女市上陽町北川内-上横山
星野川
橋長:44.0m  橋幅:3.6m  径間:16.5m  拱矢:4.3m
架設:大正9年(1920)
2連アーチ
八女市役所支所から県道52号線を200m東進、県道70号線へ左折すぐのところに架かっています。