黒木町大淵の道標  八女市黒木町大淵 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

黒木町大淵の道標  八女市黒木町大淵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。

黒木町大淵の道標 くろぎ、おおぶち
八女市 鹿牟田峠<矢部街道> 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 WEB 原位置 (正面)「右 肥後/左 矢部、道」 1 C

サイト更新情報によると、「・黒木町大淵の道標: 新規追加 (2015.4.12)」とあり、最近登載されたものである。山鹿市から県道13号により県境「鹿牟田峠」へ行った。現在の峠には、昭和4年11月福岡県が設置した「福岡・熊本 縣界標」しか見当たらない。
地元で聞き込みをすると、福岡県側の峠やや手前の谷間旧道に「追分石」があると言う。ビニールハウス角のその場所を訪ねると、横倒しになった年代不詳の「右いわの道 左やま道」と刻む石柱があった。高さ90×横23×奥行20cm。昔、相撲の力石にされていたそうで、原位置から少し南へ動いている。
「右いわの道」とは、現在の山鹿市鹿北町中心部「(肥後)岩野」のことだろう。

サイトの道標は、刻面からこの「追分石」ではない。黒木町大渕橋まで下ると、大渕橋脇に新しい丸石の道標があった。大正年間(石裏面に年号あり)の設置で「右ひご 左やべ 道 日向神」と刻む。この場所は、過去2回の水害に遭った。サイトの道標は、この流失した先代の石とも考えられ「市有形民俗」とあったので、八女市文化財担当へ現地から電話問い合わせしたが、対象と場所がそのときはすぐにはわからなかったので、調査保留とした。

この項はうっかりしていたが、本ブログ次を参照。「笹又の道しるべ(西園橋三叉路) 八女市矢部村矢部」
https://misakimichi.com/archives/4522
資料としたHP「矢部村の歴史」矢部村の開発の項による説明に、「現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。」とあったのを思い出した。

今、長崎の自宅へ帰って考えると、これは私の場所間違いだったようである。 HP「矢部村の歴史」に記す笹又の道しるべに関連した「嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて」ていうことは、「牟田峠」ではなく、現在の「無田峠」であって、もちろん「鹿牟田峠」ではない。

地図を見ると県道13号小原から南東の谷間に黒木町大淵「無田集落」がある。谷を登りつめると「無田峠」が確かにあった。この道も昔の主な街道だったのか。HPには「道しるべ(黒木町牟田)」の現地写真が掲載されていた。  http://www.snk.or.jp/cda/yabemurasi/2rekisi/kaihatu.html
サイトも私も、「牟田峠」(無田峠)を「鹿牟田峠」と勘違いした調査をしたようだ。刻面も「右肥後道・左矢部」ではなく、「右山道・左肥後道」が正しく、これからすると、道標は現在の無田峠ではなく、集落を過ぎた山道登り口にあるのではないか。

八女市黒木地区の市文化財指定「道標3基」は、八女市HPに所在地「黒木町大淵無田・本田・土窪字栗林」と内容があり、「大淵無田」の写真道標に間違いないようである。所在地「本田」とすると、大渕橋脇の新しい大正年間の丸石道標となるが、昔の道標は水害で流失したと地元で聞くから所在不明で、これは近世以前の遺産リスト対象外となる。
幸い「大淵無田」の道標写真は、八女市教育委員会教育部文化課文化財係が1年ほど前に撮影した画像を所持しておられ、提供を受けた。これが最後の写真3枚である。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。

黒木町大淵の道標(無田峠の道標) くろぎ、おおぶち 八女市 無田峠 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 市教委 原位置 (正面)「左 肥後道」、(右面)「右 山道」 1 C