投稿者「misakimichi」のアーカイブ

楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広

国東市HPの文化財による説明は、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号により西へ向かう。オレンジロードは横断して直進、県道をそのまま進むと、楽庭(がくてい)八幡神社前を通る。

MA1001 吉弘楽

南北朝の頃 広村に入封した 広正堅楽定八幡神社の神前に楽を奉納してより凡そ200年間 弘氏の厚い保護を受けたが、八代氏直居域を都甲荘屋山に移すに至り、漸次衰微した。
元禄初年古広村にあっては数年の長きにり農作物の虫害が甚だしく、その惨状は時の藩主松平公の上聞に達し、遂に五穀豊穣虫祈祷の為 広楽取立の御沙汰があり、庄屋高原氏は村役人と計り吉弘氏ゆかりの都甲荘に行き 弘の伝習を受け再び吉広村でも楽打ちが行われるようになった。
現在は7月第4日曜日、楽庭八幡神社で行われる。楽打ちは総て49人で行われ、その構成は本頭音頭1人、鉦2人、笛3人、念悌申2人、端楽15人、中頭音頭1入、 鉦2人、末頭音頭1人、鉦2人、笛3入、念佛申2人、端楽15人の計49人である。
この内、本頭音頭には庄屋自ら当り、他は各々家柄格式に応じて世襲していたが現在では保存会が中心となっている。

MC1006 楽庭八幡社仁王形石燈籠

楽庭八幡社正面鳥居前に一対の石灯籠があるが、これは仁王が灯籠を持った形をしており珍しいものである。
顔の表情は見る者を威圧する厳めくしさではなく丸顔の童子の様に見え、なごやかな親しさがある。大きさは
◎阿形(向かって右)総高210cm、像高84cm
◎うん形(向かって左) 総高210cm、像高82.5cm
であり、製作年代は江戸時代と推定される。阿形(向かって右)の灯籠火袋の背面には「初秋建之」の銘が刻まれている。

法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号によりオレンジロードの麻田まで行くと、北の高台に法釈寺と石階段が見える。

法釈寺の石階段 ほうしゃく
国東市 (麻田)法釈寺・参道 石階段 114段 宝暦3(1753) 武蔵町の石造物p7 保存状態良好 石段登り口の両脇に宝珠付きの石柱 1 C

美濃崎台場・跡  杵築市狩宿 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

美濃崎台場・跡  杵築市狩宿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。奈多海岸の手前から狩宿への案内標識により広い道路を南下し、白石鼻灯台へ行く。入口に何の案内板がなくわかりにくいが、市道が大カーブする地点。
美濃崎漁協の海浜立入禁止の看板があり、チェーンで柵止めをしている。このすぐ奥が「美濃崎台場・跡」で、史跡説明板がある。海岸へ向かうと、小さな白石鼻灯台が立っていた。
私は美濃崎漁港から向かったが、場所がわからず前記国道まで出て、やっと間違いに気付き、慌てて戻った。

美濃崎台場・跡 みのざき
杵築市 (狩宿) 台場 石塁 嘉永3(1850) 現地解説板/市教委 杵築藩台場の中では最も保存状態がよい→石塁が僅かに残る程度 杵築藩が領内の7ヶ所に設けた台場の1つ 3 C

尾 払 池  国東市安岐町大添 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

尾 払 池  国東市安岐町大添

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
上の大池は国東市域となり、リストの対象はこの池だろう(堰堤部分は杵築市域に入る)。

尾払池 おばらい
国東市・杵築市 (安岐町大添) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) 市教委/WEB 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

尾 払 池  杵築市守江 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

尾 払 池  杵築市守江

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
下の小池は杵築市域となり、リストの対象はこの池だろう(上の大池も堰堤部分が杵築市域に入る)。最後の写真は、大池から見た下の小池。

尾払池 おばらい
杵築市・国東市 (守江) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) WEB/国東市教育委員会 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

(2015年10月20日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、尾払池の下にある池が元々2段になっていたのか、別の時期に造られたのか不明なため、サイトでは次記事の国東市のと同じのを対象とし、画像を掲載するということである。

鍋倉ダム  杵築市守江 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

鍋倉ダム  杵築市守江

ダム便覧 – 日本ダム協会による説明は、次のとおり。国道213号により杵築市の東部の方へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると鍋倉ダムがある。

鍋倉ダム[大分県]

左岸所在 大分県杵築市大字守江
位置 北緯33度25分47秒,東経131度40分18秒 [近くのダム]  安岐(8km)  石山(8km)
河川 天村川水系天村川
目的/型式 A/ロックフィル
堤高/堤頂長/堤体積 43.5m/170m/321千m3
流域面積/湛水面積 4.1km2 ( 全て直接流域 ) /10ha
総貯水容量/有効貯水容量 1135千m3/1050千m3
ダム事業者 大分県
本体施工者 間組・さとうベネック
着手/竣工 1981/1995
参考資料
■鍋倉ダムの経緯と用地対策について:小野陽一郎・杉田勇
【ダム日本 No.474(S59.4)】
諸元等データの変遷 【05最終→06当初】竣工[1991→1995]
【08最終→09当初】堤高[43.5→44]
【09当初→09最終】堤高[44→43.5]

石 山 池  杵築市船部 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

石 山 池  杵築市船部

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築高校近くから県道49号により大分空港道路の杵築ICの方へ向かう。白水池、ICを過ぎた県道をなお山手へ進むと、「石山池」(石山ダム)がある。
石山ダム上の架橋工事は、大分空港道路に繋ぐ大分県の工事と聞いた。

この池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0909rekisiteki.pdf#search=’%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%82′ 杵築市 (船部) 溜池 堤長約130m 延宝年間(1673-81) WEB 昭和51に石山池を取り込む形で石山ダムとなる 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池 5 C

白 水 池  杵築市馬場尾 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

白 水 池  杵築市馬場尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築高校近くから県道49号により大分空港道路の杵築ICに向かうと、杵築ICの手前にあるのが「白水池」である。

この池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0613rekisi.pdf#search=’%E7%99%BD%E6%B0%B4%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%

白水池 しろみず
杵築市 (馬場尾) 溜池 堤長約200m 延宝年間(1673-81) WEB 大改修 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された最大の溜池(ただし、松平英親が藩主だった頃の名称は木付藩、以下略) 4 B   

迫 池・西迫池  杵築市南杵築 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

迫 池・西迫池  杵築市南杵築

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築市街の中心部、杵築市役所前の通りを西へ進み、新道バス停から住宅地の中を道なりに南に行くと、2つの池がある。地図によっては、「東谷池」「西谷池」と表記するのもある。

この両池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0826ooita1.pdf#search=’%E8%BF%AB%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%82′ 私の撮影写真は、写真1〜4が迫池(東下司溜池)、写真5〜13が西迫池(西下司溜池)。後ろの写真14〜16は、新道ロータリーに残る(移設?)この付近の井路紀念碑。関連が不明だが、「迫池」の文字も刻む。

迫池 さこ
杵築市 (南杵築・東下司) 溜池 堤長約60m 延宝年間(1673-81)?、 文久2(1862) WEB 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池/文久2、白水池の余り水を補給する目的で、中溝〜下原間540mを地下水路に設けて迫池と西迫池に引水/両池で26haを灌漑 2 C

西迫池 にしさこ
杵築市 (南杵築・西下司) 溜池 堤長約50m 延宝年間(1673-81)?、 文久2(1862) WEB 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池/文久2、白水池の余り水を補給する目的で、中溝〜下原間540mを地下水路に設けて迫池と西迫池に引水/両池で26haを灌漑 2 C

伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡などの碑  杵築市杵築 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡などの碑  杵築市杵築

杵築市街の中心部、杵築市役所前の通りを東へ進む。途中で見た伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡の碑、旧藩時代の町役所跡の碑、杵築驛からの明治里程道標。

入江氏の研究によると、この日の伊能忠敬「測量日記」の原文を解読したものは次のとおり。

文化七年(1810年)
二月七日 朝晴天。先手後手六ッ頃浦下原村出立。後手(あとて)我等(われ、忠敬自身)、青木、永井、上田、長蔵、別手昨日仕越、奈多村字仕口より初、奈多村、狩宿村、野部(野辺)村、守江村 右村々人家海辺に隔る、御茶屋迄測 領主の茶屋。奈多村字仕口より海辺二里一十町四十三間四尺。守江村中食 庄屋兵作。

それより乗船。先手(さきて)坂部、下河辺、梁田、箱田、平介、守江村御茶屋前より初、灘手村、大内山村、字屋木ノ下、同本村、草場村、字塩江崎、それより速見郡木田村 守末村入会へ堤印を残し、字札ノ辻を経て、杵築城下、馬場村尾口門より市中(冨坂町、新町、仲町、谷町)北印迄測(守江村御茶屋前より二里五町五十九間三尺)。
(付箋)二里五町五十九間三尺、内、守江村より堤印迄一里二十二町八間、堤より北印迄一十九町五十一間三尺。

奈多村仕口より杵築谷町迄合四里一十六町四十三間一尺。先手九ッ、後手九ッ半に杵築城下へ着 松平備中守居城。止宿(ししゅく)本陣 中町(仲町)佐伯屋小助。別宿谷町伊予屋兵右衛門。

着後、日出木下主計頭代官有村広作、同所止宿南部屋録十郎、島原御預所庄屋格之丞、同速見郡真那井村庄屋仙助、島原御預所高松御役所付原村庄屋藤兵衛、野田村庄屋逸平、中川修理大夫領三佐浦大庄屋加藤式平、河村仙次郎来る。杵築侯より使者岡田仙三郎出る。宿老塩屋叔蔵、冬木屋金十郎出る。

此夜宵より五ッ頃迄曇る。木星測量、恒星測量共不測。

杵築市の例は、本ブログ次を参照。長崎市も早く設置するよう要望しているが、進展がないので、参考事例として写してきた。
伊能忠敬長崎測量の止宿(ししゅく)は、諏訪神社下の地
https://misakimichi.com/archives/4394