投稿者「misakimichi」のアーカイブ

今村川岸のハンノキ自生地  諌早市真崎本村名

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今村川岸のハンノキ自生地  諌早市真崎本村名

西諫早中核工業団地入口から長崎日大高校の方へ左折し、三浦回りの県道37号線へ入る。津水大橋から今村川沿いを行くと今村橋があり、長工醤油先から小橋を渡り川の右岸土手道を進むと、すぐ右手の小さな谷間低地がこの木の自生地となっている。
水門がある広場まで進むと、有名な今村川岸の大村・諫早藩境標石が立つところである。
現地説明板は次のとおり。
ハンノキ自生地

北方性の落葉広葉樹で南西限とされた天然記念物です。昭和四十六年頃新聞に掲載されたため、文化財指定を嫌い地主により切り取られました。難をまぬがれたもの、新たに芽が出たものが十数本自生しています。
水質のある低地に生え、幹は高さ十五メートル、胸高直径六十センチメートルに達します。花は十一月から三月で新葉に先だって開き、落葉前に咲きます。
田の畦に植えて稲木にしますが、材は建築材具、家具に用い、樹皮からは染料、タンニンがとれます。
一九九九年三月    西部地区の環境と文化財を守る会

今村川岸の藩境石塚  大村市今村町

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今村川岸の藩境石塚  大村市今村町

国道34号線西諫早の貝津町交差点から長崎日大高校の方へ左折し、三浦回りの県道37号線へ入る。津水大橋から今村川沿いを行くと今村橋があり、長工醤油先から小橋を渡り川の右岸土手道を進むと、水門がある広場にこの藩境標石が立つ。
現地説明板は次のとおり。塚は説明板上の高台にすぐ2基ほど見られる。

藩 境 石 塚

ここ今村川の川岸に立つ標柱には「従是(これより)東佐嘉領真嵜村 西大村領今村、此下江川(えごう)」と書かれています。これは藩政(江戸)時代の国境石柱で、ここを起点として藩境石塚が約三十メートルおきに点々と諫早・大村境を北上しています。

大村郷村記によると、享保十年(一七二五)に設置され、その数三百数十基、大村は丸塚、諫早は角塚を交互に築きました。大村藩・佐賀藩共に厳重に守って来たもので、修理の場合も両者役人立合いのもとに厳正に行いました。しかし戦後の開発、開拓によって、その多くは消失しています。当会のこれまでの調査では、六十基が西部丘陵で確認されていますが、今後、未踏査の区域の調査が進めばもっと増えるものと思われます。

藩境石塚は、その時代、命がけで護ってきた貴重な境界標柱であると共に、文献史料を伴う歴史遺産であり、大切に保存すべきものである。
讃州谷(説明は略)
一九九九年三月    西部地区の環境と文化財を守る会

長崎の春到来  桜の開花と国際観光船入港

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長崎の春到来  桜の開花と国際観光船入港

平成20年3月24日、長崎海洋気象台は、長崎市でサクラが開花したと発表した。平年より1日早い開花宣言。今月末から4月初めにかけて、見ごろを迎える見込み。
松が枝国際観光埠頭には、オランダの大型客船 ”Statendam” が入港していた。
帰省した子が写しに行ったが、両方とも近くに寄れない。

大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

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大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

西彼杵半島外海地方の藩境石塚の所在については、これまでこの項や川上氏寄稿により調査の一部を紹介している。
今回調査したのは、大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚で、「深入の辻」の傍爾石と「ヘン岳」の塚。地元も関心を持って探してくれており、平成20年3月22日、川上、中尾、私が訪ねた。案内してくれたのは、前外海こども博物館長松川先生と地元の高橋さん。

この2箇所の藩境石塚のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)98〜99頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

牧野内平より同所頭出津郷へんたけ、夫より同郷白木迄
一大塚七拾五 内貳ツ舫塚
出津郷白木終舫大塚見渡建石より白木頭、夫より同所大さこ赤首中道境ニ終る
一建石四拾六
小城海手初の塚より深入之辻迄
一大塚貳拾四、内壹ツ傍爾石、深入之辻ニ建
傍爾石銘文
従是 東南佐嘉領 西北大村領  末ニ向

「深入之辻」とは、現東出津町の道の駅「夕日が丘そとめ」国道反対側をやや登った高台である。黒崎中学校から行く方が道がはっきりしている。写真のとおりの藩境石(傍爾石)があった。
次に、現西出津町の「ヘン岳」(漢字では小字あり「変岳」と書く)に向かった。出津教会上の道を進み、この背後の小高い山。奥の民家手前にドロ神父井戸があり、尾根に上がると、神父が拓いたという広い畑があった。

「ヘン岳」ピークを目指し、雑木の尾根を南へたどる。石を積んだ藩境塚は間隔を置かず次々に現れ、山頂まで10基ほど。先の次のピークまでとその下りで8基ほど見た。
まだ探せば塚は続いてあるだろうが、山麓は畑地跡や赤道となり不明瞭で、ここで切り上げた。
なお、資料としては、案内してくれた松川先生の作成稿で、平成17年度文化財サポーター育成講座研修資料「外海における大村藩領地と佐賀藩領地について」などがある。

有田町に残るアーチ石橋  西松浦郡有田町

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有田町に残るアーチ石橋  西松浦郡有田町

佐賀県西松浦郡有田町に残るアーチ石橋は、5橋である。西光寺前の橋、三空庵前の橋、篠原邸前の橋は、有田町商店街の本通り裏の川に架かる。
トンベイ塀通りを歩くが、西光寺前の橋は、河川改修から川筋が変り、陸に上がった格好になっている。為朝橋は、有田ダム下の中流に離れてあり、札ノ辻交差点からダム道へ入る。西有田の黒岩橋は龍門ダムの入口の少し先である。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 116 番  西光寺前の橋       有田町大樽
大正8年8月          長さ 約6.0m  幅員 2.5m
石工:松尾勝次郎、光武初次郎 服部泰吾氏寄付
平成11年に河川改修で現在のような形になったようだ。橋の向うは石垣が組まれて埋められている姿は今一つ。
商工会議所内の明治初期の石倉を改造してつくられた有田陶磁美術館の右手から、細い道をはいると、路地にトンバイ塀がみえる。解体した登り窯のレンガや窯道具を塀に利用したもので、このコースでは随所にみられ、独特の雰囲気をかもしだしている。
このコース上に3つの石造アーチ橋と出会える。

写真  2  第 117 番  三空庵前の橋       有田町上幸平1丁目
大正年間と思われる     長さ 約6.0m  幅員 約1.5m(2.0mに拡幅)
同上のトンバイ塀通り。このコース上の2つ目の石造アーチ橋。

写真  3  第 184 番  篠原邸前の橋       有田町上幸平1丁目5から入る
年代は未確認         長さ 6.6m   幅員 2.1m
毎年のように陶器市に来てるのに、この橋は知りませんでした。
トンバイ塀通りの裏通りから入り込んだら、なんと立派な邸宅専用の石橋。なんとも贅沢なうらやましい環境。3つ目の石造アーチ橋。

写真  4  第 186 番  為 朝 橋         有田町白川
年代は未確認         長さ 6.0m   幅員 5.4m
札の辻交差点から有田ダムに入る。坂道になる手前。
為朝といえば鎮西為朝のことだろう。為朝といえば、強弓であちこちに矢を射込んでいる…(諫早の御舘山稲荷神社)。

写真  5  第 192 番  黒 岩 橋          有田町広瀬山
大正12年(1923年)   長さ 12.0m  幅員3.7m
竜門ダム下と言った方が判りやすい。伊万里から川棚に向かう県道に架かる。旧西有田町の黒岩橋は端正なアーチを見せる。
橋の上流部には水路と集水施設がある。現在はコンクリートで補強されているが、もともとは石組の水槽で在ったそうだ。水の利用と石造技術がマッチした西有田の風景を楽しんだ。

なお、最後の写真は、JR佐世保線の珍しい「有田2連橋梁」。国道35号線桑古場交差点近くで見られる。

さが名木100選  80 弁財天のイチョウ  西松浦郡有田町泉山1丁目

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さが名木100選  80 弁財天のイチョウ  西松浦郡有田町泉山1丁目

国道35号線有田町の桑古場交差点か泉山交差点からJR佐世保線の北を行く県道へ入る。これは有田町中心部を通る県道である。東へ向い大イチョウは、町の東部泉山の磁石場跡「白磁ヶ丘公園」へ行く途中の市道左手にあり、一目でそれと分かる高木がある。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

80 弁財天のイチョウ
・所 在 地  有田町泉山
・推定樹齢   1000年
・大 き さ  樹高 40m  幹回り 11.6m  枝張り 18m
・登録番号   38136
雄木で、樹齢は、1,000年を越すといわれているが、勢いは全く衰えていない。1828年、有田皿山が「文政の大火」に見舞われたとき、泉山の窯元・池田家(池田伝平窯)は、この銀杏に隣接し、大イチョウの枝に抱かれていたため消失をまぬがれたと伝えられている。
国天然記念物(大正15年10月20日指定)

なお、佐賀県HPの中の「国指定天然記念物の部(1)」による説明は次のとおり。

有田のイチョウ(ありたのいちょう)

国指定天然記念物/ 大正15年10月20日指定
西松浦郡有田町泉山524
植物

神社や寺院の境内地の他、最近は街路樹としても植えられるイチョウは、中国原産の落葉高木であり、生きる化石ともいわれている。
有田のイチョウは、弁財天社の境内に所在し、雄木で、根回り11メートル、目通り幹回り9メートル、樹高38メートル、枝張りは31メートルに及ぶ県内随一のイチョウ巨木で、全国的にも貴重である。推定樹齢は、1000年以上であるが、樹勢は今も旺盛である。

さが名木100選  26〜28 川古・武雄・塚崎の大楠(クスノキ)  佐賀県武雄市

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さが名木100選  26〜28 川古・武雄・塚崎の大楠(クスノキ)  佐賀県武雄市

佐賀県武雄市にとてつもない3本の大クスノキがある。全国クスノキ巨木の順位から川古は第5位、武雄は第7位、塚崎は第53位とされている。
平成20年3月20日、黒髪山の帰りに寄って写した。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

26 川古の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市若木町川古7845−1
・推定樹齢   3000年
・大 き さ  樹高 25m  幹回り 21m  枝張り 27m
・登録番号   06309  
環境省の調査では、全国第5位とされている。幹の南西部には空洞があり、その中には稲荷の石祠が祀られ、奈良時代には、名僧行基がここを訪れ、大楠の一部には2.4mの観音像を刻んだと伝えられている。
大楠周辺は川古の大楠公園となっており、連日、県内外から観光客も絶えず訪れられている。
国天然記念物(大正13年12月9日指定)

27 武雄の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市武雄町武雄5334−2
・推定樹齢   3000年
・大 き さ  樹高 30m  幹回り 20m  枝張り 33m
・登録番号   06314  
このクスノキは、武雄神社裏手の御船山山麓にあり、環境省の調査では、全国第7位とされている。
本幹には、12畳敷きの広さの空洞がある。また、武雄市で一番古い武雄神社の御神木とされており、地元の守り神として親しまれている。
市天然記念物(昭和45年7月15日指定)

28 塚崎の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市武雄町武雄5563−2
・推定樹齢   2000年
・大 き さ  樹高 18m  幹回り 13.6m  枝張り 18m
・登録番号   0627284  
武雄市文化会館横の高台に位置しており、昭和38年の落雷によって、本幹の9m以上が失われ、中は空洞になっている。
推定樹齢2000年といわれており、県でも重要な文化財である。
市天然記念物(昭和60年4月22日指定)

佐賀県有田の黒髪山・青螺山   平成20年3月

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佐賀県有田の黒髪山・青螺山   平成20年3月

平成20年3月20日(木 春分の日)くもり。佐賀県有田の黒髪山(標高516m)・青螺山(標高618m)へ行く。参加12人。車3台は高速道の波佐見有田まで利用。
コースは、龍門ダム9時半発ー後の平ー黒髪山ー見返峠ー青螺山(昼食)ー青牧峠ー龍門ダムに15時着。
稜線は風が強く寒かった。黒髪山の山頂岩場の鎖・階段下りと、青螺山の急登りに手こずった。
青螺山の石柱は、佐世保高橋氏が探した伊万里港の「陸軍輸送港域第二区標」「昭和一五年六月十日」。