投稿者「misakimichi」のアーカイブ

登野城の星見石  石垣市登野城 ( 沖縄県 )

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登野城の星見石  石垣市登野城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。県道87号桟橋通りを上ったダイハツ(自動車ディーラー)の隅、立石橋の傍にある。

登野城の星見石 のとしろ・ほしみ
石垣市 (石垣島) 天体観測石 高145㎝ 1670年頃 市教委/WEB 隣接地の道路沿いに移設/周辺が花壇化されている 宮良長重により設置/一定の距離をおいて人が座り、目、石、星とを結んで、農耕と関わる星座観測したと言われる 2 B

ウィキペディアフリー百科事典による「星見石」の説明は、次のとおり。

星 見 石
星見石(ほしみいし)は、沖縄県の八重山諸島において、かつて農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた石である。

概要
八重山では、星の観測すなわち「星見」が漁業や農業に利用されており、農業については播種などの農作業の時期を特定していた。原初的な形としては、山を基準として星の位置を観測し、観測の対象とした星が特定の時間に特定の位置に来ることを季節の指標として、播種などの作業を行っていたと考えられている。
星見石は、山に代わるより精緻な基準として用いられたものである。星見石には、立石状のものと、方角を刻んだ方位石のものがあり、立石状のものには穴が開けられたものと、穴のないものがある。方位石は立石状のものより後の時代のものとされる。

立石状のものの場合、穴のあるものでは穴を通して、また、穴のないものでは頂点を基準として、星を観測した。方位石の場合には、中央の穴に竿を立て、その先を基準とした。星見石と組になる背の低い石を用い、2つの石を基準とすることでより正確な観測を行ったものもある。
観測対象の星としては、群星(むりぶし、ぶりぶし)と呼ばれるすばる(プレアデス星団)や立明星(たつあきぼし)と呼ばれるオリオン座が用いられた[1]。

『山陽姓系図家譜』、『八重山島諸記帳』によると、八重山の頭職であった宮良親雲上長重(みやらぺーちんちょうじゅう)が、1670年代から1690年代にかけて立石状の星見石を八重山の各村に立てたとされる[1]。
現在は、石垣島に3つ(うち1つは石垣市教育委員会蔵)、竹富島に1つ、小浜島に1つの所在が確認されている。
宮古島にある人頭税石は、立石状の星見石とほぼ同じ大きさであり、星見石と同様の用途に用いられたのではないかとの説もある。

各地の星見石
・石垣島登野城の星見石
高さ約145cmの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。現在はさんばし通りを上った自動車のディーラーの隅に置かれているが、以前はその敷地は畑でその中にあったものを移設したとされる。
・石垣島新川の星見石
高さ約1mの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。本来の位置から若干移動されている。
・石垣島大川の星見石
菊目サンゴ石の中央に穴を穿ち、放射状に方位を示す12筋の溝を刻んでいる。中央の穴に竿を立てて星の位置を観測したものと考えられている。大川村にあったものだが、宮良川土地改良事業に伴い1986年(昭和61年)に撤去されて、石垣市教育委員会により保管されている[2]。
・竹富島の星見石
立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石で、中央やや下寄りに穴が開いている。かつては竹富島北部の與那国家の畑にあったが、1953年(昭和28年)に赤山丘を公園として整備した際に移設され、現在はなごみの塔の下にある。
野尻抱影の『日本星名辞典』初版(1973年)では、川平で撮影したとされる星見石が写真付きで紹介されているが、長らく所在地が不明であった。2010年(平成22年)になって、竹富島のこの星見石が同書で川平の星見石とされたものであることが判明した[3][4]。
・小浜島の節定め石
高さ約55cm、幅約130cmの横長の珊瑚石灰岩でできた星見石で、穴が開いている。1976年(昭和51年)7月15日に竹富町の史跡に指定されている[5]。

宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ・クワノハエノキ  石垣市石垣 ( 沖縄県 )

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宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ・クワノハエノキ  石垣市石垣

HP「八重山の巨樹」による説明は、次のとおり。石垣市役所前から県道208号により石垣小学校手前まで行き、左へ入ったところに宮鳥御嶽はある。
「3.宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ」は、すでに枯れ死して伐採され、標柱と説明板のみ残っていた。「4.宮鳥御嶽のクワノハエノキ」も、かろうじて生育している。

3.宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ

「リュウキュウチシャノキ」は宮鳥御嶽のイビ門前・東側にあります。
「宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ」の説明板より
県指定天然記念物 宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ  昭和34年12月16日指定
宮鳥御嶽の境内にはムラサキ科チシャノキ属のリュウキュウチシャノキが自生しています。
この種は、熱帯原産で、北オーストラリア、マレーシア、フィリッピン、台湾の南東にある紅頭嶼に分布し、八重山諸島では波照間島、西表島、石垣島に分布します。
この御嶽は、市街地内にありながら自然林の状態をよく保ち、またリュウキュウチシャノキの北限地として、植物分布学上貴重な地域です。
なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
昭和58年2月28日   沖縄県教育委員会・石垣市教育委員会

石垣小学校の南側にある宮鳥御獄には、樹高7-11m、主幹胸高直径20-70cmもあるリュウキュウチシャノキの大木が古くから残されています。リュウキュウチシャノキは、台湾の隣にある紅頭嶼(蘭嶼)には自生しているものの、台湾を飛び越して与那国島や西表島、石垣島などの海岸沿いの低地林に生育する特異な分布をしており、植物分布の上から貴重な植物です。
宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキは、近年枯死が目立ち絶滅が危惧されています。

4.宮鳥御嶽のクワノハエノキ

「クワノハエノキ」も宮鳥御嶽のイビ門前・東側にあります。
樹種 クワノハエノキ[方言名ビンギ]
科名 ニレ科
推定樹齢 200〜300年
樹高 15m
主幹胸高 直径1.8m 幹周5.6m
※ クワノハエノキの下部は板根状を呈しています。イビ門前の広場の西側には他の樹木も生育しています。

盛加ガー  宮古島市平良字東仲宗根 ( 沖縄県 )

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盛加ガー  宮古島市平良字東仲宗根

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市役所前の県道243号を北給油所交差点からファミマの方へ左折、次の信号から右折するが、場所がわかりにくいから所在図参照。

盛加ガー ムイカ
宮古島市(宮古島) 平良市街地 洞井(湧水) 深17.5m 14世紀後半との説も 市史跡 現地解説板/WEB 保存状態良好 大規模な自然洞窟/103段の石段 1 A

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡26〜50 による説明は、次のとおり。

市指定史跡 盛加がー  指定年月日: 昭和50(1975)年12月11日
水道の発達しないころ、人びとの生活用水は天水と各所に散在するうりがー(洞井)であった。集落はうりがーを中心に形成、発達してきており、宮古の歴史はうりがーを切りはなして考えることはできない。
盛加がー内には小規模ながら貝塚層もあり、周辺一帯からは多くの青磁片、土器片等が豹変採取でき、大きな集落跡を物語っている。郷土史家の稲村賢敷氏は、14世紀後半勢力をふるった与那覇原一党の本拠地をここ盛加がー一帯にもとめているが、異説もあってさだかではない。
盛加がーは、平良近郊ではもっとも規模の大きいうりがーで、石段は103段設けられ、婦女子の踏みしめた跡を残している。

漲水御嶽と石垣  宮古島市平良字西里 ( 沖縄県 )

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漲水御嶽と石垣  宮古島市平良字西里

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡1〜25 による説明は、次のとおり。県道83号宮古島市役所前交差点から少し平良港の方へ下り、右西裏通りに入って進むと、宮古神社の対面に「祥雲寺」がある。手前左側に下る坂道が「漲水石畳道」で、「漲水御嶽と石垣」は、この坂道を下った所にあった。

市指定史跡 漲水御嶽と石垣  指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日
宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽である。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(中導氏)が1500年中山王府の先導で、八重山のオヤケ赤蜂征討にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備、奉納しようと警願、めでたくがい旋した戦勝記念に築いたと、忠導氏本宗家譜にでている。オヤケ赤蜂征討は賛否分かれるところであるが。石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重である。

漲水石畳道  宮古島市平良字西里 ( 沖縄県 )

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漲水石畳道  宮古島市平良字西里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。県道83号宮古島市役所前交差点から少し平良港の方へ下り、右裏通りに入って進む。宮古神社の対面に「祥雲寺」があり、手前左側に下る坂道が「漲水石畳道」である。

漲水石畳道 はりみず
宮古島市(宮古島) 石畳道(石灰岩) 長約25m, 幅約4.5m 1696年の大地震後 市史跡 現地解説板/WEB 度重なる改修で、長さは当初の3分の1に 1696年の大地震後、全島的に道路幅を2間半に拡幅 2 –

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡1〜25 による説明は、次のとおり。

市指定史跡 漲水石畳道  指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日
18世紀の始め、宮古の治山、土木工事が精力的にすすめられていたころ、各村むらの道路巾は2間半に拡張、改修、あるいは新設されたと伝えられている。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道も2間半に拡張され、治山事業の中で豊富に得られたであろう石を切り敷きつめたものと推定される。旧藩時代の政庁である「蔵元」南側にそって漲水御嶽前から祥雲寺北東の辻まで続いていた。廃藩置県後もほぼ完全に残っていたが、平良港築港(大正10年)、宮古神社移転(昭和17年)にともなう工事並びに第二次大戦、ついで戦後の道路工事等で損傷、現在およそ3分の1を残すのみとなっている。

祥雲寺の石垣  宮古島市平良字西里 ( 沖縄県 )

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祥雲寺の石垣  宮古島市平良字西里

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡1〜25 による説明は、次のとおり。県道83号宮古島市役所前交差点から少し平良港の方へ下り、右裏通りに入って進むと、宮古神社の対面に「祥雲寺」がある。

市指定史跡 祥雲寺の石垣  指定年月日: 昭和50(1975)年12月11日
祥雲寺は薩摩藩の建議で1611年山月和尚によって開山された。当時の寺域はどの程度であったかさだかではないが、1685年になって住職の輪番制(3年交替)を設けているところから、寺域もしだいに整備されてきたものと推定される。「球陽」は1696年の大地震の際、寺院等の石垣が崩れたことを記しており、このころすでに祥雲寺に石垣があったことを示している。
18世紀初頭、宮古では全域にわたって大規模な土木工事が進められており、このとき祥雲寺の石垣も改めて築かれたものと考察される。戦災はじめ都市計画等によって、平良の街なみは大きく変貌、石垣も消滅」しつつあるいま、当時の石造文化を知る上からも重要な建造物である。

ウプカー(大川)  宮古島市平良字西仲宗根 ( 沖縄県 )

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ウプカー(大川)  宮古島市平良字西仲宗根

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市の市街地東北部、県道83号大和井交差点の近くにある。「大和ガー」の交差点反対側の場所。

ウプカー(大川)
宮古島市(宮古島) 平良市街地 石積井(不定形) 1717年以前 市史跡 現地解説板 平成16に発掘→その割に、石垣・水面とも草で覆われ荒れた感じ 牛馬専用の井戸=きわめて珍しい 2 B

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡26〜50 による説明は、次のとおり。

市指定史跡 大川(ウプカー)  指定年月日: 平成17(2005)年5月30日
掘削年代は明らかでないが、『雍正旧記』(1727年)に「大川掘年数不相知暦代二成及大破候、康熈五拾六丁酉年修補牛馬之用水所」と記述されており、康熈56(1717)年に補修工事がなされていることから、18世紀初頭にはすでに大川が存在していたことがうかがわれる。当時の人々の暮らしにとって、牛馬は重要な労働力であった。数多く存在する井泉のなかで、牛馬専用を目的としたものは極めて稀である。
戦後、水道の普及や牛馬飼育の激減により、大川を利用することがなくなり何時しか土砂に埋もれてしまった大川を、2004(平成16)年10月、文化財総合整備事業の一環として発掘し、約50年ぶりに全体の様相を市民へ伝える事ができるようになった。

大和ガー  宮古島市平良字西仲宗根 ( 沖縄県 )

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大和ガー  宮古島市平良字西仲宗根

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市の市街地東北部、県道83号大和井交差点の近くにある。
後ろの写真5枚は、「大和ガー」の左側手前にある「ブトゥラガー」。簡素な造りで、一般の住民用として用いられたものと考えられている。

大和ガー やまと
宮古島市(宮古島) 平良市街地 洞井(切石積、湧水) 周囲の地表面から10m以上低い 1720年頃 国史跡 現地解説板/WEB 保存状態良好 大規模な半地下式の洞井(自然岩盤を切石積で補強・整形→井戸の周りに相方積みの石垣)/通路には20段の階段を設置/首里王府派遣の一部役人だけが使用したとされる 1 A

宮古島HPの 宮古島市の文化財 > 国関係 による説明は、次のとおり。

国指定史跡 大和(やまと)井(がー)  指定年月日: 平成4(1992)年12月18日
平良市街の東北に位置する泉(洞井)である。『雍(よう)正旧記(せいきゅうき)』に(1727年)記されている内容から、1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りは大小の切り石を円形に積み上げてあり、上り下りの通路には石段が設けられている。伝承によれば、首里王府派遣の在番役人など一部の者のみが使用し、一般の人々には開放されなかったといわれている。かつては泉に至るまでに2ヶ所の門があって、水守りもいたとの言い伝えがある。南島の人々と水とのかかわり合い、石工技術の見事さを示す石造遺跡として類例のないものである。

フシャトゥガー  多良間村字塩川 ( 沖縄県 )

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フシャトゥガー  多良間村字塩川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。所在地は多良間島ガイドマップを参照。現地説明板は、写真のとおり。

フシャトゥガー
(宮古)多良間村(多良間島)   洞井(切石積、湧水) 1727年と推測 村史跡 WEB 昭和40代まで使用/金網で囲まれている 周囲、階段回りに立派な切石積 3 B

沖縄離島ドットコムの多良間島観光情報による説明は、次のとおり。

フシャトゥガー
多良間集落の東側。抱護林の脇にあるガー(水が湧き出る場所)です。他のガーとは距離が離れているので、ガーが計画的にあると感心しました。特にL字型の抱護林の各端にガーがあるので良くできているな〜って思いました。でもこのガーも金網で囲まれていて中まではチェックできませんでした。でも道路側の石積みの壁がなかなかいい感じでした。

シュガーガー  多良間村字塩川 ( 沖縄県 )

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シュガーガー  多良間村字塩川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。所在地は多良間島ガイドマップを参照。現地説明板は、写真のとおり。写真9〜10が、左側洞穴の水浴用、牛の水飲用?

シュガーガー
(宮古)多良間村(多良間島)   洞井(湧水) 15-16世紀? 村史跡 WEB 一番奥の飲料用(塩分が混入)までは、入りにくい 自然洞窟/飲料用、水浴用、牛の水飲用に分かれている(入口→各種水源まで30m前後) 3 B

沖縄離島ドットコムの多良間島観光情報による説明は、次のとおり。

シュガーガー
夢パティオたらまのすぐ近くにあるガー(水が湧き出る場所)。基本的に離島ではガーの近くに住み着いて集落を形成しますのでそのうちの1つなのかもしれません。でもかなり奥まった部分にあるようで先が暗くてかなり怖かったです。行った日は曇りだったのでかなり暗かったので道路から見るだけにしました。奥には牛に水を飲ませる「ウスヌガー」や男女別で水浴びする場所があり、その奥に飲料水のガーがあるらしいです。やや塩分濃度が高い水だったらしい。