投稿者「misakimichi」のアーカイブ

山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下り、史跡案内図により集落の北西側山手へ上がって行くと、火入れ坑・跡がある。
山﨑邸跡の前からまだ左上へ車道を進んだ谷奥に火入れ坑跡、右へ歩いて入ると自稼掘坑跡。

火入坑・跡 ひいれ
霧島市 <山ヶ野金山> 坑道 17世紀末以降 市史跡 WEB 坑口を格子で封鎖/ここ以外はすべて明治期の施設 開坑時期は不明だが、金山開発の早い時期に開かれたと推定される(堅い岩盤→火を焚いて岩をもろくして掘り進んだことに因んだ命名か?) 2 B

山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ

山ヶ野金山史跡めぐりパンフレットによる説明は、次のとおり。所在場所は史跡案内図のとおり。

谷頭精錬所跡 
島津忠義は、鉱業の振興を図るため明治10年(1877年)フランスの鉱山技師ポール・オジェを招き、この場所に製錬所を設置した。動力は蒸気機関で、昼夜搗鉱(とうこう)精錬作業が行われた。だが、いろいろ問題がおこり思わしくいかず、明治13年ポール・オジェは、当山を去ることになる。以後、従来の方法により島津直営の作業が行われた。明治40年(1907年)永野に電力よる一大製錬所が完成、運転開始とともに、この製錬所は操業を停止した。

山ヶ野金山自稼掘坑  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山自稼掘坑  霧島市横川町上ノ

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下り、史跡案内図により集落の北西側山手へ上がって行くと、自稼掘坑がある。
案内図に場所説明はないが、火入れ坑に向かう途中、山﨑邸跡下から標識により右手へ入る。谷頭精錬所跡の上付近。

自稼掘坑 じかせぎぼり
霧島市 <山ヶ野金山> たぬき掘り 17世紀末以降 市史跡 市教委/WEB 当時のまま/ここ以外はすべて明治期の施設 明暦2(1656)の金山再開後すぐの露天掘り後に行われた、自稼請負によるたぬき掘りの跡(小規模断面の坑口で鉱脈だけをえぐって採るすかし掘り)/17世紀半ば頃の山ヶ野金山は、佐渡金山と並んで全国屈指の産金量を記録した 1 B

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

山ヶ野金山
山ヶ野金山(やまがのきんざん)は、鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金および銀の鉱山である。1640年に発見され一時期は佐渡金山をしのぐ日本最大の産金量を誇ったが1965年に閉山した。永野金山あるいは長野金山とも呼ばれる。総産金量は2001年の時点で日本国内第7位の28.4トンである。

歴史
金山開発までの経緯
山ヶ野付近の山中に鎌倉時代のものと推定される坑道跡があり、古くから採鉱されていたと考えられているが当時の記録は残されていない。江戸時代初期、宮之城郷佐志村(現在のさつま町佐志)の川で金鉱石が発見されたことから当時の薩摩藩藩主島津光久が金鉱脈の探索を指示した。光久の家臣であり宮之城領主であった島津久通は、石見銀山に務めた経歴のある内山与右衛門を呼び寄せて探索にあたらせ、2-3年後に金鉱脈が発見された。

記録によれば発見の経緯は以下の通りとされる。久道は紫尾神社で得た神託を頼りに自ら探索を開始し、薩摩国伊佐郡長野郷長野村(現在のさつま町永野)の宍焼口と呼ばれる地区の河原で金鉱石を発見し、さらに上流へと進み山中で野宿した。この時に久道が「赤牛が寝たような形の岩が金である」という夢のお告げを得て翌朝の1640年5月12日(寛永17年3月22日)、夢と同じような形の岩を発見し金鉱脈にたどり着いたという。この経緯にちなみ野宿した場所は夢想谷と名付けられた。しかしながら当時の状況から実際の金鉱脈発見者は与右衛門であり、久通に手柄を譲ったという見方もある。

1641年(寛永18年)、薩摩藩は長野村の金鉱脈発見を江戸幕府に報告するとともに、金山を幕府に差し出すことを提案した。但し、この提案は形式的なものであり事実上は単なる採掘許可の申請であった。翌1642年(寛永
19年1月)、幕府は採掘を許可し薩摩藩に経営を任せると回答している。後になって金鉱脈の位置は実際には長野村ではなく大隅国横川郷上之村山ヶ野(現在の霧島市横川町山ヶ野)であることがわかったため山ヶ野金山と呼ばれるようになった。但し、このことが明らかになったのは幕府に長野村と報告した後であり、薩摩藩は幕府に疑念を抱かせることを恐れて公式には長野金山の呼称を使用している。

初期の金山
金鉱脈付近には肉眼で金鉱石とわかる岩が地表に散乱している有様であったため初期の採掘は露天掘りであった。金山の周辺は柵で囲われ、東西に番所が設けられ出入りする人々は検分を受けなければならなかった。またたく間に2万人余りの作業者が集まり150ヶ所の採掘地と15ヶ所の選鉱所がつくられ金の産出が始められた。しかしながら採掘開始から1年を待たずに幕府は採掘の中止を命じた。理由は寛永の大飢饉への配慮とされたが、実際には産金量の多さに驚いた幕府が薩摩藩の強大化を警戒したためという見方もある。採掘中止の命令は1656年(明暦2年)まで続いたが、この間も秘密裏に採掘を継続していたことを示す記録が残されている。

正式に採掘が再開されると金山は再び活気を取り戻した。金山周辺には約1万2千の人々が集まり、作業者の住居や商店が建ち並ぶ町がいくつも形成された。田町と呼ばれる遊郭もつくられ「西国三大遊郭」の一つに数えられるほどであったという[1]。やがて表層部の金鉱石が採り尽くされると、地面を深く掘削する方法に切り替わっていった。金鉱脈に沿って掘削された長い溝の跡が今でも残されている。続いて坑道を地中に伸ばす方法へと移行し次第に採掘が困難になっていったが、それでも宝暦から文政年間(1751年 – 1829年)においては佐渡金山を上回る産金量を誇っていた。金山は薩摩藩にとって重要な資金源の一つとなり、借金の返済や幕府役人への心付け、天降川下流部の流路変更、新田開発工事などに利用された[2]。

近代化
1867年(慶応3年)、薩摩藩はフランス人技師のコワニエを招き、彼の助言に従って金鉱山の近代化が始められた。それまでの椀がけ法に代わって水銀を用いるアマルガム法が導入され金の回収率向上がはかられた。また、水力や蒸気機関も導入された。1877年(明治10年)にはフランス人技師のポール・オジェが招かれ竪坑の掘削や輸送用道路の整備などが進められた。1904年(明治37年)から1912年(明治45年)にかけて鉱山館長を務めた五代龍作は、シアン化カリウムを用いる青化法を導入し金の回収率向上を図り、設備の電化を行うことで採掘・精錬能力を向上させた。1907年には電力供給のため下流の天降川に水天淵発電所が建設されている。また、精錬所を山ヶ野から永野(旧長野)へ移転させ輸送の効率化も行われた。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業であった。

閉山
1943年(昭和18年)、太平洋戦争の激化に伴って、金鉱山整備令により不要不急産業の指定を受けて休山することになった。戦後、1950年(昭和25年)に再開されたが新たな鉱脈は見つからず1953年(昭和28年)に再び休山状態となった。1957年(昭和32年)7月から島津興業が試掘したものの再開には至らず1965年(昭和40年)に閉山となった。

地質
山ヶ野金山は北薩火山群のひとつである国見岳の南西麓に位置する。四万十層群と呼ばれる地層を基盤とし、主として安山岩からなる火山噴出物や永野層と呼ばれる湖底堆積物の地層が積み重なっている。鉱脈は主として中新世に噴出した大良火山岩と呼ばれる安山岩の中に膜状あるいは線状の形で含まれている。鉱脈は東西方向に多数走っており、最大のものは長さ1800メートルに及ぶ。岩石の割れ目を高温の地下水が通過する際に溶解しているシリカや金属を析出させ、長い時間をかけて鉱脈が形成された熱水鉱床である。[3]

参考文献
・浦島幸世 『かごしま文庫10 金山 – 鹿児島は日本一』 春苑堂出版、1993年、ISBN 4-915093-15-8
・橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 『三国名勝図会 巻之41』 1843年
・横川町郷土誌編纂委員会編 『横川町郷土誌』 横川町長羽田哲、1991年
・吉田陞 『山ヶ野金山物語』 高城書房、1997年、ISBN 4-924752-68-1

恵比須橋  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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恵比須橋  霧島市横川町上ノ

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下って行くと、恵比須堂の四つ角にこの石橋がある。
コンクリート拡幅されているが、下部はアーチ式石橋と確認できる。

№498  恵比須橋

霧島市横川町上ノ 下本町
天降川支流
橋長:6.5m  橋幅:3.4m  径間:5.5m  拱矢:2.4m
外佐牟田太鼓橋より1.4Kmに架かっています。

白銀坂の石畳  鹿児島市宮之浦町 ( 鹿児島県 )

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白銀坂の石畳  鹿児島市宮之浦町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。これは主に鹿児島市側の状況。鹿児島市の北部、九州自動車道薩摩吉田IC入口の県道16号に、牟礼岡団地を通り「島津ゴルフクラブ」まで行く案内標識により進む。
練習場手前ゴルフ場門のような中に少し入ると、右下に白銀坂へ下る道がある。私はここから姶良市との境界と思われる少し先の急坂(紅葉箇所まで行って往復)まで歩いたが、古い石畳部分がどこかはわからなかった。

白銀坂の石畳 しらかね
鹿児島市・姶良市 (旧・宮之浦町)<大口筋(薩摩街道)> 石畳道(安山岩) 約4㎞→約2.7㎞ (古い石畳部分は延長1㎞以上,幅2m) 18世紀前半? 国史跡 姶良町教育委員会/WEB 平成8-15の8年をかけて、埋没していた石畳をほぼ昔通りに復元 戦国時代(1550代)の開設→戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている/石畳化の時期は不明だが、同じ大口筋にある鹿児島城下より遠い「龍門司坂」が元文6(1741)に石畳になっているので、それと同時期の施工と推測される/高低差は300m以上あり、中腹の「七曲り」といわれる急勾配の箇所に石畳が敷かれている/上記「龍門司坂の石畳」に比べると、硬い安山岩の地山の転石を粗加工して使用したため、ごく標準的な石畳道となっている 2 A

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。次の姶良市資料も参照。
https://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/gyosei/shisetsu/bunka/documents/sirakanezaka.pdf#search=’%E7%99%BD%E9%8A%80%E5%9D%82′ 白銀坂(しらかねざか)は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡(宮之浦町)まで伸びる石畳の坂道である。2006年7月28日に加治木町の龍門司坂とともに日本国の史跡に指定された。

坂の歴史
坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は
300m以上あり、中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である。

明治時代
明治6年(1873年)には現在の国道10号の基礎となる重富村(姶良町重富)から竜ヶ水地区経由で鹿児島市へ至る鹿児島湾(錦江湾)沿いのルートが開通し、さらに明治34年(1901年)、鹿児島駅 – 国分駅(現:隼人駅)間の鉄道開通によって白銀坂はその幹線としての人々の利用も少なくなり次第に忘れ去られ、長年の風水害により石畳も大変傷んでいた。

歴史国道選定へ
姶良町教育委員会は、歴史的に貴重なこの坂を保存しながら、歴史を追体験できる場所として活用できるようにと「歴史の道整備活用推進事業」を実施し、建設省(現:国土交通省)から平成7年(1995年)歴史上重要な幹線道路として利用された街道の中で、特に重要な歴史的・文化的価値をもつ道路として「歴史国道」に選定された。

その他
坂の途中には2箇所の展望台があり、標高約250m付近の第2展望台からは桜島や鹿児島湾を望める素晴らしい風景が見られる。

白銀坂の石畳  姶良市脇元 ( 鹿児島県 )

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白銀坂の石畳  姶良市脇元

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。これは姶良市側の一部の状況。国道10号の重富郵便局前交差点角に専用駐車場があり、国道沿いの遊歩道を鹿児島市側へ行くと、白銀坂登山口がある。私はここから白銀坂を少し歩き、愛宕神社の方へ下った。
古い石畳部分は、遺産リストにすでに画像あり、そこがどこかまでは確認に登っていない。

白銀坂の石畳 しらかね
姶良市・鹿児島市 <大口筋(薩摩街道)> 石畳道(安山岩) 約4㎞→約2.7㎞ (古い石畳部分は延長1㎞以上,幅2m) 18世紀前半? 国史跡 姶良町教委/WEB 平成8-15の8年をかけて、埋没していた石畳をほぼ昔通りに復元 戦国時代(1550代)の開設→戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている/石畳化の時期は不明だが、同じ大口筋にある鹿児島城下より遠い「龍門司坂」が元文6(1741)に石畳になっているので、それと同時期の施工と推測される/高低差は300m以上あり、中腹の「七曲り」といわれる急勾配の箇所に石畳が敷かれている/上記「龍門司坂の石畳」に比べると、硬い安山岩の地山の転石を粗加工して使用したため、ごく標準的な石畳道となっている 2 A

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。次の姶良市資料も参照。
https://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/gyosei/shisetsu/bunka/documents/sirakanezaka.pdf#search=’%E7%99%BD%E9%8A%80%E5%9D%82′ 白銀坂(しらかねざか)は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡(宮之浦町)まで伸びる石畳の坂道である。2006年7月28日に加治木町の龍門司坂とともに日本国の史跡に指定された。

坂の歴史
坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は
300m以上あり、中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である。

明治時代
明治6年(1873年)には現在の国道10号の基礎となる重富村(姶良町重富)から竜ヶ水地区経由で鹿児島市へ至る鹿児島湾(錦江湾)沿いのルートが開通し、さらに明治34年(1901年)、鹿児島駅 – 国分駅(現:隼人駅)間の鉄道開通によって白銀坂はその幹線としての人々の利用も少なくなり次第に忘れ去られ、長年の風水害により石畳も大変傷んでいた。

歴史国道選定へ
姶良町教育委員会は、歴史的に貴重なこの坂を保存しながら、歴史を追体験できる場所として活用できるようにと「歴史の道整備活用推進事業」を実施し、建設省(現:国土交通省)から平成7年(1995年)歴史上重要な幹線道路として利用された街道の中で、特に重要な歴史的・文化的価値をもつ道路として「歴史国道」に選定された。

その他
坂の途中には2箇所の展望台があり、標高約250m付近の第2展望台からは桜島や鹿児島湾を望める素晴らしい風景が見られる。

星ヶ山(ほしがやま)橋  姶良市下名 三反田 ( 鹿児島県 )

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星ヶ山(ほしがやま)橋  姶良市下名 三反田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道40号姶良市下名の現橋の上流側に架かる。姶良市立山田小中学校が近くに見える。

№470  星ヶ山(ほしがやま)橋

姶良市下名 三反田
樋ヶ宇都川
橋長:5.9m  橋幅:4.5m  径間:5.4m  拱矢:2.2m
架橋:大正15年
国道10号線、加治木町みろく交差点から県道42号線へ約3.5Km西進、山田を右折、2.8Km先山田小学校を左手に見て県道40号線へぶつかります。そこから左折、400m右手に架かっています。

県道42号線、現橋と平行に架かっています。上流側から 向こうに見えるのは山田小中学校です。

中津野用水路  姶良市下名 ( 鹿児島県 )

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中津野用水路  姶良市下名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市の北部、県道42号山田口から県道391号に入り、姶良市立山田小中学校の校庭前まで行く。水路に沿い右手吉田川へ出ると中津野用水路の取水口と顕彰碑がある。
用水路には9つの隧道がある。取水口から下流側に主なものを辿ってみた。

中津野用水路 なかつの
姶良市 山田川 用水路、隧道(9ヶ所) 長約4㎞ 宝暦2(1752) WEB(みさき道人)/WEB C改修/隧道部は当時のまま 地形上、水が得られず貧しかった中津野に住む15歳のユキエが、山田川対岸の女生嶽から見て、山田から水路を造ると中津野に引水できることに気付き大人に提案して工事が始まった。農繁期になると協力者が減り、ユキエが1人で工事を続行したが、1人で努力する姿を見て再び協力が始まり宝暦2に竣工。ユキエは、その利発さを怖れられ山中で殺害されたとされる。ユキエの家族は、この功績により水口の姓を与えられ、水守となった→国内で他に例のない美談と悲話 1-4 B

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

中津野用水路

中津野用水路(なかつのようすいろ)は、鹿児島県姶良市で別府川の支流山田川から取水して山田、中津野地区を灌漑(かんがい)している、全長約4kmの用水路である。山田の山下井堰から取水され、9つのトンネルを通り山田の32ヘクタール、中津野の34ヘクタールに水を供給している。

歴史
姶良町の中津野地区(当時は帖佐郷)は、別府川の支流山田川と蒲生川が合流する地点で、地区の両側を川が流れていたが、川より高い位置に土地があるために水を引くことができず、水田がなく稲作は陸稲で、他は畑作農業であった。このために貧しく、中津野というだけで嫁が来ないというほどであったという。

中津野に生まれた水口ゆきえ(女性、当初は苗字なし、当時15歳)は、山田川対岸の女生嶽(にょしゅだけ、
128.8m)の上から見て、山田から水路を造ると中津野に水を引ける事に気付き、熱心に村の大人に提案して工事が始まることになった。しかし農繁期になると次々に協力者が抜けて、最後にはゆきえが1人で工事を続行した。完成が近づくと再び協力が始まり、1752年(宝暦2年)についに完成し、中津野に水田を作ることができるようになった。

しかし、これほど利発な娘は将来何をしでかすか分からないと恐れられ、権力者側により山の中で殺害された。同年12月、有志により水口邸の一角に祠が作られて祀られ、これは現存している。法名は「正孝坂童子位」で、「正しく孝行の子、土地の勾配を見出した」という意味であるが、本来は男子の法名である。

水口家は、この工事の功績により水口の姓を与えられ、代々水守の仕事をしてきた。
1951年(昭和26年)4月15日、水路の取水口に彼女の功績を顕彰する碑が立てられ、1974年(昭和49年)5月に墓が姶良町の文化財に指定され、今なお地元住民から称えられている。

参考文献
・高橋ちえこ「ゆきえ」高城書房 ISBN4-924752-72-X 1998年
・姶良町郷土誌改定編さん委員会「姶良町郷土誌」平成7年10月増補改訂版 1995年

片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松 ( 鹿児島県 )

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片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市重富から県道57号に入り、平松交差点まで行く。片子岳は標高144mの特異な形の山(写真1〜2の水路は、別水系の山下用水)。片子嶽隧道・片子嶽隧道修理の碑・上溝は、姶良市資料「新田開発と水路」のとおり、片子岳の東南にあったが、荒れた山中となって地元重久氏の案内でやっと辿りついた。
上溝は廃路となり、戦時中、集落に近い隧道を防空壕代りにしたと言うから、だいぶん以前の話である。場所的には、姶良市平松のコンクリート製品「インフラテック(株)姶良工場」(帰りにここに出て構内を通らせてもらった)背後の山中中腹となるが、水が流れない隧道跡(山を貫く長い隧道の吐口跡は、写真4〜6)、隧道修理の碑(写真7〜9)、平松側の上溝水路跡(写真10〜12)を確認できた。隧道修理の碑は風化し判読不能。脇にも小さな碑があったが、台座だけが残ってどうなったかわからないらしい。
中溝は姶良市資料から市街地となった俵原あたりと思われるが、FAX資料が不鮮明。場所を特定できす、時間がなく訪ねなかった。

片子嶽隧道・跡 へんこだけ
姶良市 上溝 素掘トンネル(水路) 長200m以上 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は吐口 下記の「片子嶽隧道修理の碑」で、トンネルが200m以上にわたり崩れたとあるので、全長はそれ以上 2 C

片子嶽隧道修理の碑 へんこだけ
姶良市 片子嶽隧道 石碑 享保11(1726) 姶良町教委 (正面)「夫隅州姶羅郡帖佐 平松村及餅田村新田往昔辺河嶽穿為用水溝 其貫中有/土岩凡百□□三間 上石時々隧而水没 故以材木其危年々停財用人夫之隙/勝難計且究意之□若有破損者田民患不少 今亦新貫掘者其□□山如仰費□/而永令□輙□□日合議之末□加治木石工竹内藤左衛門尉呼談日貫左右石/塁以割石成 天井者六尺五寸一尺二寸角 加治木自蔵王嶽取之万代不易而/有何煩則為之入用看算而以許之上応如響 中江氏藤原員倫奉之今歳丙午仲/夏吉辰工発既至今日 速成就之以国民令快楽云耳 是則吾邦君分内石貫之/始成」/享保11、トンネルが200m以上にわたって崩れたので、中江員倫が工事奉行として、長1.9m(36㎝角)の石材を用いて修復した際の記念碑 1 C

上溝・跡 うわみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は平松付近 島津氏による富国強兵の根幹としての水田化のための疎水開削 2 B

中溝 なかみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 長11㎞ 寛文4(1664) 市教委 C改修 薩摩藩第2代藩主・島津光久/重富・帖佐方面の灌漑用 3 C

掛橋坂の石畳  姶良市蒲生町・北〜西浦 ( 鹿児島県 )

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掛橋坂の石畳  姶良市蒲生町・北〜西浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道42号により蒲生の大クスまで行き、薩摩川内市方面へさらに進む。県道211号の分岐を過ぎると、北橋の先に蒲生町城下の標識があり、しばらく行った右斜めに入る道がある。
この道を登って行くと、掛橋坂駐車場が新設工事中であり、やがて車道終点に着く。掛橋坂の標柱がある山道へ入ると、勾配を増した石畳と石段の道となり、西浦の峠まで続く。峠手前、壁面に残る当時のノミ穴がどれかわからなかった。

掛橋坂の石畳 かけはし
姶良市 蒲生町・北〜西浦 石畳・石段 長337m 寛政8(1796)以前 市史跡 市教委 保存状態良好 切石を敷き詰めた石畳と、地山の石を削った石段とからなる/年貢米を運ぶのに使われた 1 B

姶良市HPの観光・体験施設による説明は、次のとおり。

掛 橋 坂

掛橋坂は、蒲生町北と西浦を結ぶ峠に見つかった石畳道。現在の県道川内・加治木線が明治時代に開通する前の旧道で、江戸時代には藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として利用されていたと考えられます。
掛橋坂が開通した時期ははっきりしませんが、道筋には寛政8年(1796)の庚申供養碑や明和9年(1772)の馬頭観音碑があることから、遅くともこの頃までには石畳道が完成していたと考えられます。また、石畳や石段の造り方が、大口筋白銀坂・龍門司坂(国史跡)に共通していることも、この道が江戸時代に整備された街道であることを示しています。
所在地 姶良市蒲生町北1006