長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 197頁 日除船
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
197頁 日除船 (日本大学芸術学部蔵)
〔画像解説〕
小舟に屋根をつけた船は、日除船または屋根船と呼ばれ、特別豪華な船を屋形船と称し区別した。
目録番号:1276 和船(3)
〔画像解説〕
台紙にGroup of Japanese Junk and boat in the Canalとある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。
目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
197頁「日除船」(日本大学芸術学部蔵)は、「幕末日本の風俗」の中に収録されているが、撮影地の解説がない。これは長崎港対岸、「稲佐崎」の舟津浦で撮影された写真である。
先の記事により154頁「和船」を載せた。長崎大学データベースでは、目録番号:1276「和船(3)」をF・ベアトは撮影している。同じとき撮影した日除船ではないか。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3632
次のデータベース目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」は、内田九一の撮影となるが、「ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している」と解説している。これがこの、197頁「日除船」(日本大学芸術学部蔵)だろう。
有名な写真で、朝日新聞社「甦る幕末」に掲載されていると現地説明板にあった。「甦る幕末」
1986年刊の95頁「屋形船 金持ちが舟遊びに使った」のことだが、撮影地の解説はない。対岸市中との間の「渡し舟」ではないか。
現在の写真は、丸尾町から稲佐崎があった旭町方面、旭町岸壁から大黒町方面を写した。
背景の山は、中央が武功山で左上が烽火山、右奥は日見峠方面の山である。山の稜線が同じであることがわかるであろう。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557