「烽火山番所道」は、越中先生が歩かれていた 長崎手帖1959年の記録
次は、長崎手帖社「長崎手帖 No.20」(1959年発行)6〜8頁に掲載されていた、「烽火山番所道」の貴重な記録。長崎楽会中尾氏が見つけてくれた資料である。
新、旧番所跡を通って登るこの烽火山旧道は、ほとんど歩かれていないと思っていたが、さすが越中哲也先生。今から53年前にちゃんと調査されていた。
新番所近くにあった「染筆松」石碑(現在は所在不明)、山頂近くの巨岩に彫られた太田南畝(蜀山人)の漢詩碑を記録されている。
やはり山頂の前記「南畝石」近く、烽火山十景「亀石」の所在にまでは、気付かれなかったろうか。山頂東下の「人面岩」、七面山妙光寺参道登り口の「傴僂巖」(カウコウイハ)も、この記録に説明がないのは惜しい。
これら石などは、本ブログ次を参照。書庫を誤って削除しているため、現在復元中。
https://misakimichi.com/archives/3342
https://misakimichi.com/archives/3345
https://misakimichi.com/archives/3346
越中哲也先生稿 私の長崎案内 第9回「春徳寺より烽火山まで」
(前半の春徳寺、焼山部分は、掲載略)
川ぞいに七面山に登ってゆくと、蜀山人が加藤清正を詠んだ詩碑が、清正公様を祀る七面山に向って建っている。この碑もあやうく、なくなるところだったのを、昭和29年、鳴滝町西部町内会の方々のお蔭で、現在の地に立派に建てられたのは欣ばしい。(たしか当時の町内会長さんは中村順作氏であったと記憶している。)
これから、いよいよ山道である。烽火山は本当の山名を斧山といったが、寛永15年(1638)島原の乱に出陣した松平伊豆守信綱が、帰途長崎に立寄り、斧山の地形は四方の連絡に便なる所であるとして、長崎に火急の事変が起った際、大村、諫早、島原をはじめ港内外の台場番所に非常を報知するため、山の頂上に烽火台を作り、番所を設けて、遠見番役人を勤務させたので、山名も烽火山とよばれるになった。この山で最初の烽火があげられたのは、正保4年(1647)6月24日、当時通商禁止のゴアの南蛮船2艘が突如長崎に入港した時であったという。
延宝年間(約270年前)長崎奉行として在勤した牛込忠左エ門は、風雅の道を愛し、この山に烽火十景と題して名勝の地を設け、崎陽の文人墨客を招いて度々佳筵を開いた話は有名である。山道は七面山の方に登らず、旧道の秋葉山ぞいに登ると、昔のおもかげをしのばせる石段がある。然し現在ではこの道は使用されていないので、足よわの人は七面山道に廻られる方がよい。旧道を登ると番所の跡も、「ふでそめの松」も見られる。ふでそめの松と言っても、今では古松は枯れ、牛込奉行が「染筆松」と揮毫した石碑のみが建っている。このあたりより道は急坂となる。
頂上近くの巨岩に「滄海春雲捲簾瀾云々」と烽火山の詩が彫られている。これは文化元年
(1804)9月、長崎奉行支配勘定役として赴任した太田直次郎(蜀山人)に、長崎の豪商中村李囿が、長崎七高山の一つ一つに建てる詩文を書いてもらったものの一つであるが、他の六つの山には建てられなかったものか、現在では烽火山にのみしか見ることが出来ない。頂上にある烽火を焚いた“かま跡”は、年々風雨にさらされ、こわれかかっている。
文化時代(150年前)の古記録によると、「地より凡そ二間程高く築上げ、丸くして縁を石灰にて塗る。中の深さ凡そ三間程、三方の下地より溝道を穿ち火入口とす。唯小屋の方は無し指渡し二間四尺」と記している。
帰途、健脚の人は、雑木林をくぐりぬけて、岩窟にある秋葉大権現に火事除けのおまじないをあげ、下って、享和2年(1717)江戸の亀井戸天神を模して作ったという、石段をふみ、石橋を渡って、紅葉の名所として名高い妙相寺の境内に入る。妙相寺は晧台寺の末寺であり、中国人のあげた聯額や、木喰上人の像などがある。はじめてこの道を下る人は、迷い易いので要心していただきたい。
足に自信のない人は、頂上から左手の峰づたいに、片淵三丁目に出られるとよい。この道は、深々とした松木立の中をゆるやかに下ってゆくので、ちょっと市中の人には味えぬ静けさがある。 (筆者 当時長崎市博物館学芸員)