長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

以上は、長崎の古写真考において前の記事とした長崎歴史文化博物館所蔵の明治絵葉書「長崎市材木町魚市場」。「長崎さるく説明板」の説明である。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2356

ところが不思議なことがあった。株式会社図書刊行会「50 ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 長 崎」昭和58年8月発行 再版の59頁「●市場」に、この絵葉書写真とあと1枚新たな写真の掲載がある。画像解説は次のとおり。

98 材木町の魚市場
江戸時代より明治の末年まで魚市場は中島川の河口、材木町の石段を登ったところにあった。前方に見える鉄橋は賑橋である。

99 材木町の魚市場
中島川より石段を登ると石敷の広場があった。川には毎朝魚船が詰めかけ、魚の取引きが賑やかにその広場で行なわれていた。(写真は明治30年頃)

画像をおかしいなと思って見たら、絵葉書写真とは反転されて掲載されている。絵葉書写真を試しに1枚目に反転してみた。石橋だった賑橋は、1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられている。
写真集の初版発行は昭和54年6月。初版から反転されていたかはわからない。材木町の魚市場の位置や背景の山から考えると、反転の光景は誤りと思われる。越中先生、これで良いでしょうか。

同写真集には、別に次の間違いがあるようだ。
8頁 作品7 立神方面より港口を望む  撮影場所は戸町の丘(墓地)からである。
https://misakimichi.com/archives/2350