2016「長崎くんち」奉納踊の庭先回り
長崎市諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が、10月7日から9日まで始まった。妻らが7日夕方から奉納踊の庭先回りを見物に行った。
元船町の傘鉾、油屋町の傘鉾、くんち見学ケネディ駐日大使の車、元船町の唐船祭、筑後町の龍踊、上町のコッコデショを写してきたよう。
2016「長崎くんち」奉納踊の庭先回り
長崎市諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が、10月7日から9日まで始まった。妻らが7日夕方から奉納踊の庭先回りを見物に行った。
元船町の傘鉾、油屋町の傘鉾、くんち見学ケネディ駐日大使の車、元船町の唐船祭、筑後町の龍踊、上町のコッコデショを写してきたよう。
東長崎地区現川の薬草講座
2016年10月4日(火)曇り。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市東長崎地区の現川へ。駅周辺を歩いた。
JR長崎本線現川駅、オニタビフコ、アキノノゲシ、カニクサ、カナムグラ、ノアズキ?、ヒヨドリグサ、ツユクサ、ジシバリ、ベニバナボロギク、ミズヒキ、カラスウリ、ノブドウ、ゲンノショウコ、ルコウソウ、ヒガンバナ、ホシアサガオ、現川バス停、長崎市立高城小学校現川分校跡、稲穂干し
川原大池公園の薬草講座
2016年9月27日(火)快晴。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市南部の川原大池公園へ。サクラも咲いていた。
カワラタケ、キツネノマゴ、ヌスビトハギ、アキノノゲシ、ジュズダマ、ミカン草(毒)、スイレン、フウトウカズラ、クズの花、クサギ、ガネブ(山ブドウ)など
伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング 第1回(2)
2016年9月24日(土)快晴、伊能忠敬測量日記に基づき、第1回は主に市中心部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に炉粕町の止宿、旧大同庵跡(現・立正佼成会長崎支部)に集合。宮の下公園で昼食、午後3時に恵美須町の船津橋で解散した。
講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者26人。
第2回は、10月8日(土)、午前9時飽の浦公園集合、市対岸の海岸部を歩き、茂里町ココウォークで午後3時解散。参加料1000円。申込みは、江越先生へ電話かFAX 0956−856−1531
伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング 第1回(1)
2016年9月24日(土)快晴、伊能忠敬測量日記に基づき、第1回は主に市中心部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に炉粕町の止宿、旧大同庵跡(現・立正佼成会長崎支部)に集合。宮の下公園で昼食、午後3時に恵美須町の船津橋で解散した。
講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者26人。
第2回は、10月8日(土)、午前9時飽の浦公園集合、市対岸の海岸部を歩き、茂里町ココウォークで午後3時解散。参加料1000円。申込みは、江越先生へ電話かFAX 0956−856−1531
伊能忠敬長崎測量関係資料 入江氏作成
上記の伊能忠敬長崎測量関係資料は、顕彰碑をつくる会入江氏が作成したものを、参考のため載せる。
伊能忠敬長崎止宿跡記念碑が完成 除幕式を行う
伊能忠敬が日本地図を作成するために、この長崎の地を測量して回ったのは文化10年(1813)、今から203年前のことであります。そこで私たちは、有志の方々のご協力により、長崎における伊能忠敬宿泊の地(旧大同庵跡・現在は炉粕町 立正佼成会長崎支部、旧諏訪荘跡地)に顕彰碑を建てることにいたしました。
この顕彰碑建立に際しましては、立正佼成会様からは快いご快諾をいただきました。また、長崎市からも細やかなご配慮をいただくとともに、「伊能忠敬測量止宿跡」のさるく説明板まで設置してくださいました。
伊能忠敬が、この長崎の地をより綿密に測量し、記録に残したことを多くの人々に知ってもらい、より多くの人々が長崎を訪れることを願っています。
当日は除幕式の後、梅松鶴で祝賀会を行った。伊能忠敬長崎測量関係資料は、顕彰碑をつくる会入江氏が作成したものを、次記事に載せる。記念碑正面字体は、伊能忠敬測量日記から本人自筆の字とした。
最初の新聞記事は、2016年9月19日付長崎新聞と読売新聞のニュース。
伊能忠敬足跡探訪記念ウォーキングは、次の日程で行う。参加費1000円。要申込
・第1回 9月24㈰(土) 9時大同庵跡出発—市中心部—船津町瓊浦公園15時30分
・第2回 10月8㈰(土) 9時飽の浦公園出発—梁川橋—ココウォーク15時30分
事務局江越までファックス又は電話でお願いします。 ☎095−856−1531
(追 記) KTNテレビ長崎の2016年9月22日「みんなのニュース」は、次のとおり。
伊能忠敬の記念碑除幕式 2016年9月22日 12:07
江戸時代、全国を歩いて測量し正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬が、長崎での測量の際に宿泊した場所の跡地に記念碑が建てられました。伊能忠敬が長崎に来た日に合わせて18日に行われた除幕式には、顕彰碑をつくる会の関係者などおよそ40人が出席しました。記念碑は今から203年前、日本の地図を作るため長崎を測量した伊能忠敬の功績を称えようと建てられました。伊能忠敬の測量日記によりますと、長崎市の諏訪神社の下には「大同庵」という場所があり、測量隊はそこに16泊して長崎の海岸線などを測量したということです。つくる会の入江正利会長は「やっぱり長崎の町というのは、江戸時代は勉学に励んでいる人にとっては理想のというか希望の町だった。伊能忠敬がここにきて縦横に測量したのも、そういうところに意味があるんじゃないかと思う」と話していました。今月24日と来月8日には記念ウォーキングも開催されます。
佐世保市愛宕山(別名 飯盛山とも)は要塞地
佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料。内容がわかりにくいが、そのまま載せる。佐世保市愛宕山(259m)については、本ブログ次も参照。
佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石 https://misakimichi.com/archives/4395
陸軍用地境界標石の受難 佐世保市愛宕山 https://misakimichi.com/archives/4256
高橋輝吉氏稿 佐世保市愛宕山(別名 飯盛山とも)は、要塞地
戦前(内務省「官山」とも)=地元の山=中里東漸寺の山とも…。地元は登るだけ。軍の目、警察の耳、山番の口が。これは後で解かる。山に登ると、海が見える。艦も見える事でしょう。小佐々岳の木場よりは、下の方に丸見えです。
昭和19年頃になると、頂上にレーダーが据え付けられ、カモフラされていたという話。下からも見えました。頂上の一角に。山には登られませんでした。昭和14、15年頃には、くじ付き「シャモジ」を売ってました。町の方は、植木市などで賑わってました。山の方はお寺さんで、賽銭上げたら終り。帰るのみ。今より登り道も悪かったです。今は手摺りあり、良くなっています。
戦後は、若い人、子供、老人と多くの人が参り、登ります。
カメラ持参で、前はフィルム用が多く、現在は全部デジカメです。四方八方を撮ってますよ。私は四方を廻り見た。陸第四号、二号が目に入った。後ろの方にも、七、八、九、一〇号と、多くを撮った。石の写真のやみつきの初めかなー。
私はこれは変だ。戦前の事が頭をよぎった。何か有ると思い、大蔵管財へ。事情を話し、それは○○○で、1通の書を下さいました。「要塞標石地帯」の地図でした。ア—ア、これで解かりました。これから大変な事になってしまった。
天気の良い日は山、山へ行き、フイルムの時代、フラッシュが早くだめになる。5台位、変わったかなー。15年前に撮影した写真が、今、役に立っています。
現在は、第四八号が柵の中。第五二号は現物の石なし、3回行く。地滑りで埋まっている石。4本かなー。陸第三七号は上だけなし。4m下に有りました。現在は針金にてOK。
まだまだ変化。地滑りが多くなるのかなー。何で四五号の岩場に陸の石が。第四四号と第四二号が、次号待つ。7合目西側に陸軍省と刻んだ石(小型)2基有り。第拾九号、第弐拾号、これは変だと。
島原半島めぐり 2 雲仙仁田峠付近の夏の草花
2016年8月8日(月)晴。墓参で帰省中の親戚らと、妻が島原半島めぐりへ。2は雲仙仁田峠付近で見た夏の高地の草花。資料は雲仙お山の博物館「雲仙 花図鑑 夏2」パンフレットから。
写真は、ノリウツギ、シシウド、フジバカマ、モミの大木、ホタルブクロ、コバキボウシ、ヤマホトトギス、ウツボ草、ホソバシュロソウ、クワなど。
島原半島めぐり 1 岳棚田・雲仙仁田峠・島原・原城跡
2016年8月8日(月)晴。墓参で帰省中の親戚らと、妻が島原半島めぐりへ。岳棚田の展望・雲仙お山の情報館前で見た幼稚園キティバス・仁田峠からの展望・島原武家屋敷の水路・島原市内猪原金物店・布津町大平食品前の展示災害救援ヘリコプター・原城跡の天草四郎像など。