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山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から国道269号により山之口町麓交差点まで行く。ここから左折し県道422号に入ると、永野橋の手前右側にこの石敢當が見える。
永野橋を渡った先には、史跡「島津寒天工場跡」の入口案内板があった。

山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當) やまのくち、やまのくち
都城市 (永野) 石敢當(凝灰岩) 高45㎝,幅23㎝,厚15㎝ 享和元(1801) 日本の石敢當p135/市教委(山之口町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」135頁による記録は、次のとおり。当時の写真は135頁(写真120)にある。

永野1565 永野家前の三叉路の突き当たり内庭前路傍に「石敢當」と陰刻した、高さ45cm、幅23cm、厚さ15cmの頭がやや丸味をおびた凝灰岩の碑が立っている(写真120)。碑の正面の右左に「享和元年」「九月吉日」と刻されている。享和元年は1801年、いかにも永年の風雨に耐えた古色蒼然たる石敢當である。この石敢當は反対側の道路脇にあったが、道路整備で現在地へ移設したという。供花供水をしている。県内では4番目に古い。

山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口

都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。国道の左右側に麓武家屋敷道が残る。石敢當については、前記事で2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」の記録から、造立が古いと思われるものを2基載せた。
これはその他、麓地区で見かけた石敢當。場所説明は省くが、説明板はあるものの現物が所在しなかったり、新しい石柱の石敢當である。宮崎では、あまり大事にされていなく、「日本の石敢當」のデータはほとんど役に立たないと聞いている。

山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方と反対の国道対面側へ右折し、奥の小川が流れるごぜ道遊歩道のところまで行くと、この角の電柱根元に説明板と石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真126)にある。

麓3119 原口家前三叉路突き当たりに、上部が欠けた高さ45cm、幅15cm、厚さ10cmの凝灰岩に「敢當」と彫られた碑が立っている(写真126)。上部が欠けているので、「石敢當」であったかもしれない。これは別の場所から移設されたものという。古いものらしいが造立年銘がない。

山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方へ左折し奥まで行くと、右側の方の突き当たりに、石敢當の説明板と石垣に組み込まれた石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真125)にある。

麓2995 橋口家空屋敷の石垣に嵌め込まれた、高さ53cm、幅33cmの凝灰岩に「石敢當」と彫られたやや長方形の碑がある(写真125)。古いものらしいが造立年銘がない。

長田の石敢當2  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當2  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。県道沿いの三股町梶山小学校先から左折。坂の突き当たりカーブミラーと電柱の間に、コンクリート台上のこの石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真128)にある。

大字長田梶山上馬場2914 小牧家前T字路突き当たりのコンクリート台上に「石敢當」と刻された、高さ53
cm、幅33cm、厚さ16cmの丸い形の自然石の碣が立っている(写真128)。造立年銘はない。

長田の石敢當  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。三股町梶山小学校のすぐ先の県道沿い右側に鈴木家の屋敷がある。
長田の石敢當は、鈴木家敷地の西角に立っていたのを、県道拡幅工事があり、同家内の庭に移設し横倒しに置いてあるので、家人に断って見学する。

長田の石敢當 ながた
(北諸県)三股町 (梶山下馬場) 石敢當(砂岩) 高84㎝ 江戸初期?? 日本の石敢當p138 不詳 本当に「江戸初期」なら、国内で2番目に古い石敢當のなる可能性あり B

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137〜139頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真129)にある。

大字長田梶山山下馬場2884 鈴木家の畑中に、高さ84cm、幅31cm、厚さ24〜27cmの砂岩の自然石上部に梵字、下に「石敢當」と刻されたものが立っている(写真129)。
『みまたの石造文化』(平成5年3月発行・三股郷土史研究会)には次のような解説がある。
[石塔の種類−石敢當(庚申塔婆)]この石敢当は、鈴木さん宅地の畑の中にあるが、この位置は梶山城大手口に通ずる三叉路の位置にあたる。種子ボロンは、諸仏一切結合の種子である。石敢当は他町村などにも多くあるが、ボロンの種子を刻出したものは他に発見されていない。貴重な庶民の文化遺産である。この石敢当は庚申信仰の衆中によって造立されたものである。都城盆地内唯一のものである。造立年は不明なるも江戸後期と推定。…(以下、省略)

乙房町の石敢當  都城市乙房町 ( 宮崎県 )

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乙房町の石敢當  都城市乙房町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR西都城駅前交差点から県道31号により北西へ進む。庄内川に出る手前、庄内橋南交差点から県道108号へ右折。この付近が乙房町である。
乙房平田地区2948という番地は、2つ目角先の右側。蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」にあると記している。写真のとおり写真スタジオができたが、現在は廃業し空き店舗。県道に面した路傍に「石敢當」は見当たらない。
裏が蔵満家の屋敷のようだが、ここも空き家。庭を覗いても「石敢當」は見当たらない。近所で聞き込みをしたが、子は都城市街に住んでいるらしく、これ以上の手がかりはなかった。
坂を下って消防分団倉庫前(近くに町区自治公民館がある)石垣角に立っていたのは、「水神」だった。

乙房町の石敢當 おとぼう
都城市 石敢當(凝灰岩) 高22㎝,幅35㎝,厚8㎝ 弘化2(1845) 日本の石敢當p124/市教委(都城市史) –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」124〜125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

たとえば、乙房平田地区2948 蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」と刻した高さ22cm、幅35cm、厚さ8cmの頭丸味の凝灰岩の端整な碣がある。弘化2年(1845)造立というが、造立年銘はない。

祝吉町の石敢當  都城市祝吉町 ( 宮崎県 )

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祝吉町の石敢當  都城市祝吉町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR都城駅前交差点から国道
269号により北東に進む。都城農業高校前を過ぎると、次に祝吉五差路交差点がある。
祝吉町地区6521という地番はもうない。6500番が「美容室 ビューティーサロン クラヤ」である。この付近で、国道の対面側も含め長友家と石敢當の聞き込みをしたが、手がかりがなかった。

祝吉町の石敢當 いわよし
都城市 石敢當(自然石、凝灰岩) 高33㎝,幅20㎝,厚8㎝ 安政3(1856) 日本の石敢當p125 不詳 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

祝吉町地区6521 長友家隣屋敷畑T字路突き当たりブロック囲中に(昭和61年区画整理以前は、細い曲り道で三叉路突き当たりの路傍にあった)「石敢當」と刻字した、高さ33cm、幅20cm、厚さ8cmの凝灰岩の自然石がある。安政3年(1856)の造立というが、造立年銘はない。

姫城町の石敢當  都城市姫城町 ( 宮崎県 )

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姫城町の石敢當  都城市姫城町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。姫城町17街区姫城自治公民館は、都城市庁舎南別館左の狭い車道に入ると、途中に姫城公民館入口への案内標識がある。姫城山児童公園の下が公民館である。
現地を訪ねて公民館付近を探したが、写真の高さ106cmという石敢當は見当たらない。移設したのか、都城市教育委員会文化財課に現地からすぐ電話して依頼したが、まだ返答がない。

姫城町の石敢當 ひめぎ
都城市 姫城公民館・前 石敢當 高106㎝,幅19㎝,厚16㎝ 安政5(1858) 日本の石敢當p.125/市教委(平成6 古石塔類調査票) 移設 (正面)「石三石敢當」/安政5かどうか不確定 2 C

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は126頁から。

石三 石敢當  □年三月 (二面に石敢當の刻字)
姫城町17街区姫城自治公民館 (安政年間造立という。碑面に「□午」とあり、安政五年が「戌午」にあたる)
106cm×19cm×16cm

ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば ( 宮崎県 )

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ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば

HP「ぴこねっと日本ねっ島」名所旧跡 宮崎県 都城市による説明は、次のとおり。

ふるさとの名木 クス並木

このクス並木は、明治41年(1908)都城尋常小学校女子部の第1回の卒業生が記念植樹したものです。
14本の老木は今なお健在で市民に爽やかな季節感と夏の木陰を提供しています。明治末に植えられたクスの木が旺盛な姿を見せているのは類例も少ないそうです。貴重な文化財として保護されています。樹高20メートル、、胸高周囲4メートル30、根回り4メートル50。推定樹齢99年です。素晴らしい姿だと思います。
都城市教育委員会文化財課