月別アーカイブ: 2016年9月

宇検の碇石3  宇検村田検 ( 鹿児島県 )

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宇検の碇石3  宇検村田検

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島リストによるデータは、次のとおり。名瀬港から県道79号により宇検村田検へ行く。田検小学校裏に民家を1軒挟んだ奥に、「イジュンゴ」という湧水井戸があり、井桁に転用された碇石が、ここにある。石の継ぎ目から真ん中で割れた1本?のよう。

宇検の碇石3 うけん
(大島)宇検村(奄美大島) 宇検村立田検小学校・裏 碇石 長110㎝ 中世(12-15世紀) WEB(みさき道人) /WEB 井戸の井桁に転用 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ 3 –

宇検の碇石1  宇検村宇検 ( 鹿児島県 )

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宇検の碇石1  宇検村宇検

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島リストによるデータは、次のとおり。名瀬港から県道79号により宇検村へ行く。大字宇検でも役場などある村の中心部でなく、かなり離れた西部。県道が大和村境から宇検村へ入って、すぐ倉木崎のあるあたりである。
「倉木崎海底遺跡」案内板により宇検集落へ入ると、奥に宇検公民館(わかりやすくは宇検集落公民館か)があり、庭園橋に転用された碇石がここに残る。

宇検の碇石1 うけん
(大島)宇検村(奄美大島) 宇検公民館の池 碇石(凝灰岩) 長309㎝ 中世(12-15世紀) WEB(みさき道人) /WEB 庭園橋として転用/中央部分にヒビ 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ 2 B

宇検の碇石2  宇検村湯湾 ( 鹿児島県 )

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宇検の碇石2  宇検村湯湾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島リストによるデータは、次のとおり。名瀬港から県道79号により宇検村へ行く。湯湾の総合運動公園前にあるのが宇検村生涯学習センター「元気の出る館」である。碇石はここの「宇検村歴史民俗資料室」に展示されている。
倉木崎海底遺跡と碇石の資料は、同室パンフレットから。

宇検の碇石2 うけん
(大島)宇検村(奄美大島) 宇検村生涯学習センター 碇石(凝灰岩) 長282㎝ 中世(12-15世紀) WEB(みさき道人) /WEB 室内展示 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ 1 C

名柄の石敢當  宇検村名柄 ( 鹿児島県 )

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名柄の石敢當  宇検村名柄

瀬戸内町久慈から宇検村に出るため、県道79号の峠越えして、下ったところが宇検村名柄だった。集落にある「名柄集落遺産見どころマップ」によると、名柄公民館裏の里道に「⑤石敢當」を表示していたので訪ねた。
詳細は不明。

久慈の白糖工場跡  瀬戸内町久慈 ( 鹿児島県 )

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久慈の白糖工場跡  瀬戸内町久慈

瀬戸内町立図書館HPの文化財の紹介(歴史)による説明は、次のとおり。古仁屋から県道79号により北東に久慈まで行く。「久慈の精糖工場の跡地は、現在は藪地・みかん畑となっている」とある。資料によると久慈集落の南側付近の場所と思われるが、案内板がなくどこかわからなかった。
近くの海浜公園前あたり民家入口の石垣が、白糖石とはどんなものか知らないが、これをを利用しているようだった。

なお、奄美市名瀬の金久の白糖工場跡は、現在の矢之脇町「らんかん山公園」登り口、有村ビルあたりにあったと言われている。現地には「慶応年代の白糖工場跡」説明板のみが遊歩道にあった。

久慈の白糖工場跡
寛政13年(1801年)、薩摩藩は四国の讃岐から教師を招き、白糖製造を試みた。これが奄美における白糖製造の始まりであったといわれている。その2年後に白糖上納令が出て、奄美大島、徳之島、喜界島で計20000斤を貢納させた。ところが農民の疲労困ぱいがひどく、成果も思わしくなかったので、後に製造を廃止した。
その後薩摩藩は、藩主島津久光公の代(1865年)になって、イギリスのオーストロスとマキンタイラーの両技師を招き、外国製の機械4組を購入して再び白糖製造を始めた。久慈の精糖工場の機械はオランダ製で、他3箇所のものはイギリス製であった。それは当時、黒糖の値段が下がったことの打開策であった。工場は現在の瀬戸内町久慈をはじめ、奄美市名瀬の金久、宇検村須古、龍郷町瀬留の4箇所に建てられ、藩士7名・英語通訳1名・医師1名・人夫120名ほどが来島し、3年かかって建築を終え、操業を開始した。久慈の精糖工場の跡地は、現在は藪地・みかん畑となっている。

立 石  瀬戸内町油井 ( 鹿児島県 )

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立 石  瀬戸内町油井

瀬戸内町油井集落の案内板「ようこそ油井へ」による説明は、次のとおり。古仁屋から県道79号により久根津トンネルを抜けた下り途中の油井湾側、須佐礼バス停の少し手前に「立石」がある。

⑲ 立 石
「タチイシ」とよばれ、かつては沖から入ってくる舟の目印になっていたそうです。

油井のサキシマスオウノキ  瀬戸内町油井 ( 鹿児島県 )

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油井のサキシマスオウノキ  瀬戸内町油井

瀬戸内町油井の須佐礼海岸西側に、見事な板根を持つ町指定天然記念物「サキシマスオウノキ」があるので訪ねた。古仁屋から県道79号により須佐礼の久根津トンネルまで行く。トンネルを出て左側の旧県の道をしばらく戻ると、ガードレールに剥がれかけた案内標識があり、ここから山道を海岸まで下ると、この「サキシマスオウノキ」のところに出る。
場所がわかりにくいので、所在図を載せる。山道の踏跡をたどると、浜にいったん出なくても着ける。

ウィキペディアフリー百科事典による「サキシマスオウノキ」の解説は、次のとおり。

サキシマスオウノキ
サキシマスオウノキ(先島蘇芳木、Heritiera littoralis)は、アオイ科(従来の分類ではアオギリ科)の常緑高木。日本では特によく板根を発達させる木として有名である。
特徴
常緑性高木で5-15mになる。葉は長さ10-20cmで、長楕円状卵形から楕円状卵形。先端はとがっている場合も丸まる場合もあるが、基部は円脚(丸っこい形)をあいている。葉質は硬く、表は緑色でつやがあって無毛、裏面は銀色や多少色づく円形の鱗状の毛が密生する。
円錐花序は7-15cmになり、多数の花をつける。
板根が特徴。板根を持つ樹木は熱帯域に多い。日本ではこの他に、イヌビワ、オキナワウラジロガシなどが形成することがあるが、本種のそれが群を抜いて立派で、高さは2mくらいになる例もある。
分布
熱帯アジア、台湾、ポリネシア、熱帯アフリカに分布。マングローブ林のある湿地の内陸側に多く生育する。日本での成育地は奄美大島、沖縄島、石垣島、西表島が知られる。
利用
沖縄県では、かつてこの板根を切り出してそのまま船(サバニ)の舵として使用した。樹皮は染料、薬用として利用される。和名 サキシマスオウノキ(先島蘇芳木) は、染料として利用されるスオウ(蘇芳木、マメ科の落葉小高木)に由来。
参考文献
・初島住彦『琉球植物誌(追加・訂正版)』,(1975),沖縄生物教育研究会

旧陸軍弾薬庫跡  瀬戸内町手安 ( 鹿児島県 )

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旧陸軍弾薬庫跡  瀬戸内町手安

現地説明板は、次のとおり。瀬戸内町古仁屋から県道79号により手安まで行くと、案内板がある。右折して南部大島自動車学校事務所まで上がると、その前が「旧陸軍弾薬庫跡」である。入口に照明スイッチがあるが、内部の奥まで見学してない。

旧陸軍弾薬庫跡
この弾薬庫跡は、旧陸軍により昭和7年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒体制がとられていたため地元民は、この壕の存在すら知らなかった。
終戦により、武装解除とともに大量の弾薬が運びだされ、当地沖の大島海峡にすてられて、初めて弾薬庫という事がわかった。
この施設の内部は網の目に組まれた鉄骨を厚いコンクリートで固め、さらに銅板を張りめぐらせ空気が洩れないように、又、湿気防止のため周囲は空間を設け風圧に耐えるため二重壁の構造になっているなど、当時の弾薬庫としては珍しく規模、構造とも日本で最も優れた施設であったと言われている。
瀬戸内町

諸鈍長浜のデイゴ並木  瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島) ( 鹿児島県 )

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諸鈍長浜のデイゴ並木  瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。加計呂麻島瀬相港から県道614号により東に諸鈍へ向かう。生間港(古仁屋とのフェリー便もある)から峠越えして諸鈍へ入ると、長浜海岸沿いにデイゴ並木がある。

諸鈍長浜のデイゴ並木 しょどん、ながはま
(大島)瀬戸内町(加計呂麻島) デイゴ並木 80本以上 江戸初期 町天然 WEB 樹齢300年/近年、デイゴヒメ コバチというインドから飛んできたハチが寄生したため、6月の開花時期に満開とならなくなった 琉球王朝に支配されていた時代「那覇世」に、琉球からの文物の流入口として栄えた良港・諸鈍長浜の目印として、夜目にも見える赤い花を咲かせるデイゴを植えたと言われる 1 A

瀬戸内町誌歴史編編纂委員会編「瀬戸内町誌 歴史編」平成19年発行の737頁による説明は、次のとおり。

天然記念物 デイゴ並木  [1978年12月15日指定]
樹齢300年といわれるデイゴの巨木の並木である。諸鈍シバヤでも有名な諸鈍集落の最も海岸の近い場所にある。85本あるというデイゴの巨木は、様々な表情を見せており、1本1本を眺めて散策するだけでも楽しめる。琉球交易の目印であった可能性のあるこの木は、5月から6月にかけて鮮やかな真紅の花を咲かせる。花の盛りの頃は、湾に入ってくる船や峠を越えて集落に入る道からも木々に咲く花が鮮やかに見える。このデイゴ並木の巨木85本のうち21本は、国の巨木樹に登録されている。

震洋隊基地跡  瀬戸内町押角呑之浦(加計呂麻島) ( 鹿児島県 )

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震洋隊基地跡  瀬戸内町押角呑之浦(加計呂麻島)

ブログ「大奄美史」紀行による記事は、次のとおり。加計呂麻島瀬相港から県道614号により北東に押角の呑之浦トンネル手前まで行く。トンネル開通により迂回路となった旧道の方に入ると、島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
記念公園一帯が、配置図のとおり震洋隊基地跡となるが、島尾敏雄文学碑(このあたりに本部、兵舎、弾薬庫などがあった)から海岸沿いの遊歩道を先に進むと、震洋艇の格納壕が点々と確認できる。

2014-05-28  震洋隊基地跡 (呑之浦)  加計呂麻 戦跡・聖蹟

島尾敏雄文学碑から遊歩道を先に進む。少し行くと震洋のレプリカが置かれた格納壕がある。前に案内板。この先も遊歩道が続いていて点々と格納壕がある。

震  洋
昭和19年4月、軍令部から頽勢挽回用として提案された一から九までの特殊兵器のうちの一つで、マル六の回天とともに実用されたのがマル四の震洋であった。鋼製及び木製の試作艇は5月27日に試運転が行われ多少の改造のうえ、直ちに量産に移された。一人乗りの一型改一は艇首に炸薬を搭載して全速で敵艦船に衝突自爆しようとするモーターボートで、量産のため主機関は自動車のエンジンを使った。のち、指揮艇として二人乗りで機銃と噴進砲を積んだものを並行して量産に移した。
18年8月、第一次震洋隊50隻が長浦(横須賀)での訓練を終わって大蝶舞台として父島に出撃した。その後8月以後、九州の川棚警備隊と江田島の江の浦で訓練を行い、比島、南西諸島、本土各地、伊豆諸島、小笠原諸島、支那沿岸、東南アジア(現地製造)等に敵配備して来攻に備えたのである。これらの搭乗員は、兵学校や予備学生出身の青年士官が隊長となり、各艇員は予科練出身者であった。

特攻といえば「神風」とか「飛行機の体当たり」を連想するように、いわゆる航空特攻の印象が非常に強い。戦争を題材にした映画や記録フィルムでも必ずといっていいほど飛行機の特攻シーンが出てくる。(最近見た話題の映画でも特攻隊の迫力あるCG映像をウリにしていた)
実際にはいろいろな種類の特攻兵器が開発されていて、海軍の水上、水中兵器として実用化されたものに、回天(人間魚雷)とこの震洋があり、陸軍でもマルレという震洋に似た特攻艇が使われている。
震洋は最終的には6200隻が建造され、部隊としての震洋隊は146個隊編成された。特攻隊員は1隊あたり50人が原則で、基地要員も含めると190人前後で、震洋隊全体としては、兵力30000人弱、特攻要員7300人程の部隊であった。
このうち実際に出撃したのは、コレヒドール島(マニラ湾口の島)の1個隊、沖縄の2個隊の合わせて3個隊である。震洋部隊の戦死者は2500人と言われるが、多くは輸送船の沈没、上陸米軍との陸戦や誘爆事故によるものだという。
震洋艇はきわめて単純な構造で、ベニヤ板でできたモーターボートに自動車のエンジンを付けたもので、先端に250kgの炸薬を詰め込んでいた。艇の舳が対象物(敵艦)にぶつかったときに舳がへこんで回路がつながり爆発する仕組みになっていたという。
奄美地区では、ここ呑之浦の第十八震洋隊の他に、同じ加計呂麻島三浦に姉妹隊の第十七震洋隊、大島海峡対岸の久慈湾に第四十四震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。 ※参考『図説特攻』(太平洋戦争研究会編)

長崎市牧島町に残る「1 牧島震洋基地」は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/5