久慈の白糖工場跡 瀬戸内町久慈
瀬戸内町立図書館HPの文化財の紹介(歴史)による説明は、次のとおり。古仁屋から県道79号により北東に久慈まで行く。「久慈の精糖工場の跡地は、現在は藪地・みかん畑となっている」とある。資料によると久慈集落の南側付近の場所と思われるが、案内板がなくどこかわからなかった。
近くの海浜公園前あたり民家入口の石垣が、白糖石とはどんなものか知らないが、これをを利用しているようだった。
なお、奄美市名瀬の金久の白糖工場跡は、現在の矢之脇町「らんかん山公園」登り口、有村ビルあたりにあったと言われている。現地には「慶応年代の白糖工場跡」説明板のみが遊歩道にあった。
久慈の白糖工場跡
寛政13年(1801年)、薩摩藩は四国の讃岐から教師を招き、白糖製造を試みた。これが奄美における白糖製造の始まりであったといわれている。その2年後に白糖上納令が出て、奄美大島、徳之島、喜界島で計20000斤を貢納させた。ところが農民の疲労困ぱいがひどく、成果も思わしくなかったので、後に製造を廃止した。
その後薩摩藩は、藩主島津久光公の代(1865年)になって、イギリスのオーストロスとマキンタイラーの両技師を招き、外国製の機械4組を購入して再び白糖製造を始めた。久慈の精糖工場の機械はオランダ製で、他3箇所のものはイギリス製であった。それは当時、黒糖の値段が下がったことの打開策であった。工場は現在の瀬戸内町久慈をはじめ、奄美市名瀬の金久、宇検村須古、龍郷町瀬留の4箇所に建てられ、藩士7名・英語通訳1名・医師1名・人夫120名ほどが来島し、3年かかって建築を終え、操業を開始した。久慈の精糖工場の跡地は、現在は藪地・みかん畑となっている。