月別アーカイブ: 2015年8月

宝永隧道(今村マブ)  菊池市今 ( 熊本県 )

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宝永隧道(今村マブ)  菊池市今

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から国道325号により大津町方面に南下、菊池橋を渡ってすぐ老人ホームつまごめ荘の後ろ側に向かうと、戸崎城跡の入口橋のところに宝永隧道(今村マブ)の案内標識がある。

宝永隧道(今村マブ) ほうえい
菊池市 今村井手 トンネル(水路) 長302m 宝永2(1705) WEB 毎年4月、小学生が内部を見学 河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が今・赤星・森北地区に引水するため開削 1

菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾 ( 熊本県 )

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菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿町城北小学校前まで行く。菊池市方面へ県道18号を少し進むと左手上が松尾字大林であり、集落内の東端入口道路に面して薬師堂がある。
道標は、薬師堂の裏側に拝殿の支え石となってあり、地元の人もあまりその所在を知らないので注意する。資料は菊鹿町史などから。

菊鹿町松尾の道標 きくか、まつお
山鹿市 (大林・薬師堂)<相良往還> 石道標 高100㎝,幅21㎝ 弘化2(1845) 市教委 県道拡幅により移動 (正面)「右、わいふ」、(左面)「左、山みち」 2 C

なお、最後の4枚は、菊池市方面へ県道18号をさらに進み、大林橋脇で見た地蔵道標。天保年間の建立で、台座正面に右左と地名刻字があるが、判読できない。

城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野 ( 熊本県 )

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城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記 熊本県によるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿温泉の方へ向かうと、途中に松尾神社がある。

名称 城野松尾神社のクスノキ
(きのまつおじんじゃのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 20m(注1)
目通り幹囲 6.3m(注1)
推定樹齢 伝承700年(注1)
所在地の地名 熊本県山鹿市菊鹿町木野(注2)
山鹿市指定天然記念物(1983年8月2日、「松尾神社の樹木群」として境内の主な樹木を一括指定)

注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2005年1月15日、山鹿市に合併。旧行政区は鹿本郡菊鹿町

松尾神社の境内に、2本のクスノキが立っている。いずれにも紙垂をつけた細い注連縄が巻かれている。神木とされているのだろう。奥の方に立つ方が大きい。
もう片方は境内前面で石造仁王像の後ろに立っている。神社に仁王さんとは奇妙な感じがするが、九州ではときどき見かける。
仁王像もクスノキと同じ注連縄を腰に巻いている。さすが、神社の仁王さんである。

浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地 ( 熊本県 )

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浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによる説明は、次のとおり。現地は玉名市の北西部。旧岱明町との境界あたり。浮田溜池は三段あり、上・中・下の池がある。国道208号玉名バイパスから入り、すぐ左折すると浮田下の池があり、この池の土手に説明板と由来書きの顕彰碑がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4604

浮田下ノ池・吐井手 うきた
玉名市 浮田下ノ池〜元口掛 護床敷石 長26m,幅5-7m 嘉永5(1852)以降 市教委(浮田溜池関連施設p11-17) 上流側2段は洋風に並べられた布石状の敷石、最下部は打込みはぎ状の敷石 惣庄屋・清田新之允によって文化13(1816)に浮田溜池(中ノ池)が造られたが、嘉永5の干魃を受けて中ノ池の上下に造られた溜池/下ノ池から流出する3本の水路のうちの「元口掛」に設けられた導水路 1 A

さて、遺産リストにある下ノ池から流出する「元口掛」に設けられた導水路の玉名市教育委員会提供写真である。玉名バイパスの土手道路敷となったのか確認できない。私が見たのは、下の池土手東側手前にあった導水路である。
7月28日、再び確認に出かけたが、現状写真のとおり玉名バイパスの工事で、最下部の打込みはぎ状の敷石は、コンクリートが張られ、導水路は改修されているようなので、比較写真を掲げる。

三重津海軍所跡  佐賀市川副町大字早津江津 ( 佐賀県 )

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三重津海軍所跡  佐賀市川副町大字早津江津

HP 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産による説明は、次のとおり。国道444号と県道48号により大川市方面へ向かうと、柳野内交差点に佐野常民記念館と三重津海軍所跡案内標識がある。最初の資料は、佐賀市世界遺産登録推進室パンフレットから。

三重津海軍所跡  佐賀県佐賀市

日本初の実用蒸気船を建造し、海軍教育でも名高い施設。

佐賀藩の長崎警備に伴う海防強化は、神ノ島、伊王島などの砲台建設や築地反射炉での鉄製大砲の鋳造によってなされましたが、それと並ぶもう一方の柱は蒸気船を主力とする洋式海軍の創設と整備にありました。
1853(嘉永6)年のペリー艦隊の浦賀来航をきっかけに、幕府は大船製造の禁令を解除しました。佐賀藩は、オランダに蒸気軍艦を発注するとともに、独自に蒸気船製造を計画。また、1855(安政2)年には、幕府が設置した「長崎海軍伝習所」へ多数の佐賀藩士を海軍伝習生として参加させ、操船技術に加え、造船や機械工学、火薬製造を学ばせました。

1858(安政5)年、佐賀藩は三重津船屋を拡張し、独自の海軍教育施設である「御船手稽古所」を設立しました。これが三重津海軍所の前身です。翌年には三重津船屋の西一角を海軍稽古場として拡張し、訓練場などを設置しました。その後、佐賀藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のために乾船渠(ドライドック)、船の部品やボイラーを組み立てるための施設等を建設し、1865(慶応元)年には、日本初の実用蒸気船である「凌風丸」を建造しました。
なお、三重津海軍所や佐賀藩海軍所などの名称は、後の時代に付けられたもので、当時は一般に「三重津」と呼ばれていました。

三重津海軍所跡は、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区の三つのエリアから構成されています。現況で視覚的に確認できる遺構は、船入場と堤防の一部だけですが、海軍所全体の範囲は平成13年度から15年度に実施した埋蔵文化財確認調査でほぼ判明しています。
また、修覆場地区については、平成21年度から調査を実施しており、金属加工関連遺構や乾船渠跡を発見し、三重津海軍所跡の「真実性の証明」を補強する資料となっています。
この乾船渠は、複雑な木組みの技術で骨格を造り、土で覆い階段状にした特異な構造をもち、その施工には日本在来の土木技術が随所に応用されています。このような乾船渠は国内に類例がなく、現存日本最古のものであることがわかりました。

三重津海軍所は明治初期に閉鎖されたと思われますが、その頃の状況はよくわかっていません。その後、海軍所跡地は、1902(明治35)年から1933(昭和8)年まで商船学校として利用されました。現在は、佐野歴史公園として整備されています。
なお、2013(平成25)年に国の史跡に指定されています。
2014(平成26)年には、隣接する佐野常民記念館3階に、三重津海軍所跡の内容や価値を知ることができるインフォメーションコーナーがオープンしました。

(追 記 2015年8月25日)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストのデータに、次のものが登載された。

船屋地区の河岸土留板の止杭・跡 ふなや
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 停泊施設? 江戸期 市・世界遺産登録推進室 木杭列(本物)が残るのみ 船屋地区は、海軍所が整備される前から佐賀藩の和船を管理する「御船屋」のあった場所→現存遺構がその時のものなのか、洋式船を動かすための訓練所「御船手稽古所」が置かれた時代のものなのかは不明(後者なら安政5)/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C

御修覆場地区の荒籠 おんしゅうふくば
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 石水制 寛政5(1794)以前 市・世界遺産登録推進室 現存する石積みの表面は近・現代の補修を受けている 荒籠自体は、「川副下郷早津江村」(寛政5)に記載されているので、佐賀藩三重津海軍所とは直接の関係はない/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C