月別アーカイブ: 2015年4月

大野小学校のセンダン  大野城市瓦田3丁目 ( 福岡県 )

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大野小学校のセンダン  大野城市瓦田3丁目

大野城市HPの「大野城市の指定文化財」による説明は、次のとおり。県道112号瓦田橋の少し南の路地からか、またはまるとぴあ前交差点から南西の方へ曙町3丁目角を曲がって、大野小学校正門へ行く。 

センダンの木
センダンの木は、大野城市瓦田三丁目800番地の大野小学校の校庭にそびえ立っています。
この木は、1994年(平成6年)3月18日に大野城市の天然記念物に指定されました。センダンの木は、センダン科の樹木で熱帯アジアに広く分布している落葉の高木です。日本では、九州や四国でよく見かける木で、初夏には、小さな紫色の花が房状に咲き、秋には、1センチメートルあまりの黄色い実を付けます。
大野小学校のセンダンの木は、高さが約9.8メートルで、幹周りが、約2.5メートルあり、樹齢は、150年から200年と推定されています。このような大木を見かけるのは、市内はもとより、周辺地域を含めて稀なことです。

大野小学校のシンボルとしてのセンダンの木は、大正3年旌表旗(せいひょうき)受賞を記念して、大野城市の牛頸の山中から移植された老木です。植樹当日は、牛頸小学校の子どもたちも参加しての大がかりな事業であったようです。今は、運動場のまん中にそびえ立っていますが、当時は、運動場と民家の境に植えられたそうです。

しかし、たび重なる校庭の拡張工事によって、現在のように運動場のほぼ中心に位置するようになりました。ところが、台風の被害にあってから、めっきり衰弱してしまいましたので、学校と地域住民で元のような元気なセンダンの木にしようという運動が起こりました。そうして、樹木医による治療を続けた結果、今では、緑の葉をいっぱいに茂らせ、見違えるほど元気になりました。もともと、大野小学校の校庭にセンダンの木を植えるようになったのは、大野小学校の子どもたちがすぐれた素質を子どもの時から磨き育てていくこと、そして、大きな心を持った人間に育つことを願ってだそうです。

文学作品に見るセンダン
センダンは、古くは、楝(あふち)(現代表記では、おうち)と呼ばれ、文学作品の中にも散見し、古い時代から近畿地方でも見られたようです。
「木のさまにくけれど、楝の花いとをかし、かれがれにさまことに咲きてかならず五月五日にあふもをかし」と清少納言の枕草子(三十七)の中に書かれています。
また、「妹(いも)が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに」と万葉集(巻5−798)に詠まれています。

センダンの集い 
大野小学校では、毎年、学校全体で人々を勇気づけてくれるセンダンの木に感謝する「センダンの集い」を実施し、楽しいひとときを過ごしています。また、校庭からは、センダンの木の下で遊びまわる子どもたちの歓声がいつも聞こえてきます。子どもたちはもちろんのこと、一般市民も、200年あまりの歴史を見つめてきた、このセンダンの木を眺め昔を思い起こすとともに、特に夏は、涼しさを求めて木の下に集まり、楽しい憩いの場にもなっています。そして、秋から初冬にかけて、えさを求めて多くの鳥たちが黄色い実をついばんでいる様子をよく見かけます。この貴重なセンダンの木を末永く、みんなの力で保存していきたいものです。

筒井の井戸  大野城市筒井2丁目 ( 福岡県 )

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筒井の井戸  大野城市筒井2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号錦町1丁目交差点から東へ入り御笠川の方へ向かうと、すぐ運河を埋め立てた新川緑地公園の通りがある。その中央あたりから上筒井公民館に行く途中のマンション後ろ側に井戸はある。
場所がわかりにくいので、所在図を載せる。所在地は、筒井2丁目7−15あたり。

筒井の井戸 つつい
大野城市 井戸(花崗岩) 径115㎝ 18世紀以前 県有形民俗 市教委 江戸期には木枠?/住宅地の真ん中にゴミ集積場のようにフェンスで囲まれている 「木の筒を以って井韓(いげた)とす」との記載が貝原益軒の書にある 4 C

那珂・御笠堀川・跡  大野城市筒井2丁目 ( 福岡県 )

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那珂・御笠堀川・跡  大野城市筒井2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号錦町1丁目交差点から東へ入り御笠川の方へ向かうと、すぐ運河を埋め立てた新川緑地公園の通りがある。
昭和48年頃の古写真は、筑紫野市HP「ちくしの散歩」一覧54から

那珂・御笠堀川・跡 なか、みかさ
大野城市 新川緑地 <運河> 約850m(緑道) 宝暦3(1753) 中間市史・中p304-305 流入する水量が少なかったため運河の機能を果たせず廃止→埋戻し→公園化 寛文4(1664)に福岡藩が計画し、その後着工・中断していた「筑後川と博多を結ぶ」運河⇒計画再燃、寛延2(1749)着工、宝暦3に竣工 3 B

曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石)  大野城市曙町2丁目 ( 福岡県 )

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曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石)  大野城市曙町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号雑餉隈町と錦町の境に建っていた旧日田街道の郡境石。現在は大野城市役所別館3階・歴史資料展示室に移設展示している。
跡地には、場所を明示するための石柱と説明板を埋め込んでいる。ROYAL CHESTER FUKUOKA手前。

曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石) あけぼの
大野城市 大野城市役所別館3階・歴史資料展示室<日田街道> 境界石(花崗岩) 高118㎝,幅29㎝,厚26.5㎝ 文化14(1847) 市史跡 市教委/WEB 移設/四周を鉄パイプで補強 (正面)「従是、西 那珂郡/東 御笠郡」/那珂郡〜御笠郡 3 C

水城跡(小水城)  大野城市・春日市・太宰府市 ( 福岡県 )

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水城跡(小水城)  大野城市・春日市・太宰府市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道31号大野城市小水城交差点の市道脇に史跡案内板がある。

水城跡(小水城) みずき
大野城市・春日市・太宰府市 土塁(濠) 長1.2㎞,幅15m (基底),高7m 天智3(664) 国特別史跡 文化財指定書 保存状態は良好 わが国を代表する大土塁(唐と新羅の攻撃に備えて築かれた防衛施設)/海側に幅60mの濠が造られていたことから「水城」の名の所以/主要部分は太宰府市に 2 B

水城跡(大土居)の西側  大野城市・太宰府市 ( 福岡県 )

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水城跡(大土居)の西側  大野城市・太宰府市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大野城市のJR水城駅付近から見た水城跡(大土居)の西側。

水城・跡 みずき
大野城市・太宰府市 土塁(濠) 長1.2㎞,幅15m(基底),高7m 天智3(664) 国特別史跡 文化財指定書/WEB/WEB(みさき道人) 九州自動車道間以西の区間→大宰府市との市境(写真は大野城市側からの撮影)に残る わが国を代表する大土塁(唐と新羅の攻撃に備えて築かれた防衛施設)/海側に幅60mの濠が造られていたことから「水城」の名の所以 3 A

水城跡(大土居)の東側  太宰府市・大野城市 ( 福岡県 )

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水城跡(大土居)の東側  太宰府市・大野城市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。東門跡がある県道112号太宰府市水城3丁目交差点付近から見た水城跡(大土居)の東側。

水城・跡 みずき
太宰府市・大野城市 土塁(濠) 長1.2㎞,幅15m(基底),高7m 天智3(664) 国特別史跡 文化財指定書/WEB/WEB(みさき道人) 水城東門跡〜九州自動車道間は単独(上の写真)で、同自動車道以西は大野城市との市境(下の写真)に残る わが国を代表する大土塁(唐と新羅の攻撃に備えて築かれた防衛施設)/海側に幅60mの濠が造られていたことから「水城」の名の所以 2 A

安徳のエノキ  那珂川町下梶原 ( 福岡県 )

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安徳のエノキ  那珂川町下梶原  

現地説明板は、次のとおり。名前は安徳だが、実際は下梶原にある。県道601号により真教寺角まで行くと、西側の町道沿いにエノキの大木が見える。

県指定天然記念物  エ ノ キ

所 在 地 福岡県筑紫郡那珂川町大字下梶原151番地1
指定年月日 昭和37年7月21日
ニレ科の落葉喬木。胸高幹周4.5メートル、根回り12メートル。根元に高さ1.6メートルの三角形をした猿田彦命の碑があるが、それをかき抱くようにして立っており、樹齢の古さを物語っている。
又、この樹木に寄生木が寄生している。              那珂川町教育委員会 

下梶原の燈とぼし(見返り燈籠)  那珂川町下梶原 ( 福岡県 )

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下梶原の燈とぼし(見返り燈籠)  那珂川町下梶原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道575号で南中入口交差点まで行き、那珂川南中と安徳南小の間の町道を進むと、左折し約1kmの案内標識があった。
これより2つ目の角(小川沿い四叉路。ここに標識はなし)から谷間を上がると町史跡案内板があり、左の未舗装道を九州新幹線の高架真下近くまで行くと、「下梶原の燈とぼし」がある。地元では「見返り燈籠」という。

下梶原の燈とぼし(見返り燈籠) しもかじわら、ひとぼし
(筑紫)那珂川町 <さいふ道> 石常夜灯(自然石) 高約2m 亨和3(1803) 町教委 /WEB(みさき道人) 原位置?/九州新幹線の工事の際に倒壊防止のため修復 (石組が変化した可能性) 粗く整形しただけの石を積み上げた上に、整形された火袋と笠石を載せただけの簡易な構造→他に例を見ない/太宰府の鬼すべりや四季折々の祭りの日には、多くの参拝者が通った 2 C

裂田溝(安徳台の狭窄部)  那珂川町安徳 ( 福岡県 )

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裂田溝(安徳台の狭窄部)  那珂川町安徳

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道385号山田交差点あたりから水路沿いの町道を辿ると裂田溝公園があるが、核心部ではない。さらに北東へ下ると、県道575号を跨ぎ、安徳台の住宅地先に裂田神社があり、カワセミ公園となっている。ここが裂田溝(安徳台の狭窄部)で、遊歩道が整備されている。

裂田溝(安徳台の狭窄部) さくたのうなで、あんとくだい
(筑紫)那珂川町 裂田溝の切通し部 切通し(水路) 長約5㎞の溝のうち、約200mの区間 4世紀の可能性 町教委/松木洋忠 阿蘇溶岩流を開削した区間が残る/補強用のアンカーの跡が丸見え/修景改修(遊歩道が整備されている) 日本最古の農業用水路(『日本書紀』に登場する=周辺の発掘調査からも、時代推定はほぼ確か)/溶岩流開削区間のオリジナル性は失われているが、「雰囲気」はそのまま伝わってくる。このような古代に、溶岩流を開削するだけの技術と、地形的な必然性があったことは、よく分かる 2 A