月別アーカイブ: 2015年4月

山家宿の西構口  筑紫野市山家 ( 福岡県 )

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山家宿の西構口  筑紫野市山家

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道3号筑紫交差点などから山家道を通り国道200号に入り山家郵便局手前まで行く。北へ市道を上がると、角左に長い白塀の家が見え、ここが山家宿の西構口で説明板がある。
5枚目以降の写真は、山家宿のほかの主な史跡地。白い標柱などが立っていた。

山家宿の西構口 やまえ
筑紫野市 <山家宿> 石塀・土壁 江戸期 県史跡 市教委 土壁は明治期の復元/平成18・19年に修復 小規模な構口が多い中で、長大な土壁付き構口は稀少→吉田松陰の『西遊日記』(1850)の中で、「道中ノ諸駅ヲ歴観スルニ、駅ノ前後ニ於テ左右袖ノ如ク石垣ヲ築キ、女墻ヲ附ル者多シ、亦事アルノ時、里門ヲ作ルガ為ニ便スルカ」と記されている 2 B

冷水峠の石橋(首なし地蔵前の石橋)  飯塚市内野 ( 福岡県 )

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冷水峠の石橋(首なし地蔵前の石橋)  飯塚市内野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道3号原田交差点などから国道200号により飯塚方面の冷水峠へ行く。大根地神社大看板がある入口手前の林道を上がると、旧長崎街道の冷水峠に着く。
飯塚市内野側へ10分ほど下ると、首なし地蔵堂とその脇の沢に桁石橋があり、石畳の峠道となつている。

冷水峠の石橋(首なし地蔵前の石橋) ひやみず
飯塚市 <長崎街道>/穂波川支流 石桁橋(花崗岩) 長2.9m(G),幅2.6m 文政6(1823) 市教委 /WEB(みさき道人) 保存状態良好 石梁3本を使用 1 –

冷水峠の石畳  飯塚市内野 ( 福岡県 )

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冷水峠の石畳  飯塚市内野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道3号原田交差点などから国道200号により飯塚方面の冷水峠へ行く。大根地神社大看板がある入口手前の林道を上がると、旧長崎街道の冷水峠に着く。
飯塚市内野側へ10分ほど下ると、首なし地蔵堂と桁石橋がある。この間は良好な石畳が残った峠道だった。土砂崩れ補修もされている。撮影写真はわかりやすいよう、地蔵堂付近から冷水峠へ登る順に並べた。

冷水峠の石畳 ひやみず
飯塚市 (内野)<長崎街道> 石畳道 長約2㎞,幅1.8m(最大でも) 慶長16(1611) 市教委 /WEB(みさき道人) 修景的に整備/筑紫野市側は滅失 毛利但馬/開削以来、幹線街道として使用され続けた(それまでは、古八丁越が幹線ルート) 2 B

冷水峠の郡境石1・2  飯塚市内野 ( 福岡県 )

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冷水峠の郡境石1・2  飯塚市内野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道3号原田交差点などから国道200号により飯塚方面の冷水峠へ行く。大根地神社大看板がある入口手前の林道を上がると、旧長崎街道の冷水峠に着く。対になった郡境石2本と、「從是大根地宮十四丁」の道標がこの峠にある。

冷水峠の郡境石1(穂波・御笠郡境石) ひやみず
飯塚市 大根地神社・入口 <長崎街道> 境界石(尖頭角柱) 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 原位置 (正面)「從是東 穂波郡」/穂波郡〜御笠郡/御笠郡側の境界石と対をなす 1 C

冷水峠の郡境石2(御笠・穂波郡境石) ひやみず
飯塚市 大根地神社・入口 <長崎街道> 境界石(尖頭角柱) 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設?(本来なら筑紫野市側) (正面)「從是西 御笠郡」/御笠郡〜穂波郡/穂波郡側の境界石と対をなす 2 C

太宰府天満宮参道橋  太宰府市宰府4丁目 ( 福岡県 )

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太宰府天満宮参道橋  太宰府市宰府4丁目

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,056 太宰府天満宮参道橋・過去橋

太宰府市宰府4丁目
7径間円弧桁橋

太宰府天満宮由緒
「祭神 菅原道真公
鎮座 延喜3年2月25日
菅原道真公は承和12年6月25日京都の菅原院にて御生誕 国家の興隆と文化の発展に尽され 延喜3年2月25日 配所榎寺に於いて清明の一生を終えられ現在の御本殿の地に葬り 菅聖廟安楽寺天満宮と称えて奉祀す 誠道守護 学業成就 除災招福等の信仰厚く 全国天満宮の総本社とも仰がれる御社であります。」
太宰府天満宮社務所

心字池と太鼓橋
「この神池は心という字をかたどったものであり、太鼓橋と直橋の三つの神橋は、仏教思想にいう過去・現在・未来の三世一念の相を現わしたものである。この池の橋を渡ることによって「三世の邪念を祓う」ともいわれ、参拝者の身を清める橋でもある。」

№2,057 太宰府天満宮参道橋・現在橋

太宰府市宰府4丁目
5径間桁橋

№2,058 太宰府天満宮参道橋・未来橋

太宰府市宰府4丁目
5径間円弧桁橋

太宰府天満宮のクス・ヒロハチシャノキ  太宰府市宰府4丁目 ( 福岡県 )

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太宰府天満宮のクス・ヒロハチシャノキ  太宰府市宰府4丁目

太宰府天満宮の境内にある国指定天然記念物のクス・ヒロハチシャノキ。市指定天然記念物のイチイガシは訪ねていない。太宰府市HPの文化財による説明は、次のとおり。

(国指定記念物)

太宰府神社のクス

所在/宰府4丁目7-1 太宰府天満宮
指定年月日/大正11年3月8日指定
天神の森と呼ばれる太宰府天満宮のクスノキの社叢のうち、巨樹3本が国指定となっています。社殿西側の最大木は樹高28.5m、幹周11.7mで、重量感のある優美な樹形を保っています。本殿後ろに並ぶ夫婦樟は大きく根上がりし、樹高17.1m、幹周10.6mと4.4mを測ります。

太宰府神社のヒロハチシャノキ

所在/宰府4丁目7-1 太宰府天満宮
指定年月日/昭和10年6月7日指定
天満宮の社殿西側にあり、樹高15.3m、幹周約6.5m、根元周囲約9.7mを測ります。大正3年の落雷のため幹の上部は折れ、幹は高さ約10m位まで空洞になっています。本樹はわが国最大のヒロハチシャノキです。

(市指定記念物)

太宰府天満宮のイチイガシ

所在/ 宰府4丁目7-1 太宰府天満宮  
指定年月日/平成24年5月25日
このイチイガシは、社殿の東側、中島神社の裏手にあります。樹高は約20m、幹の南側半分が欠損するものの、幹周約5.4mを測り、同種としては市内最大を誇ります。主幹が欠損せずに残っていれば福岡県内最大級の幹周りを誇っていたものと考えられます。幹の表面はマメヅタなどツル性植物に覆われ、枝は八つ手状に大きく広がり、樹勢は旺盛です。

太宰府天満宮  太宰府市宰府4丁目 ( 福岡県 )

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太宰府天満宮  太宰府市宰府4丁目

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市にある神社。旧社格は官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

天然記念物
・大楠(おおくす) 樹高 33m、樹齢 300年以上
・ヒロハチシャノキ

交通
・私鉄西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩5分
・JR鹿児島本線二日市駅から西鉄バスで23分 1時間に1本程度の運行

・九州自動車道太宰府インターチェンジから15分
・九州自動車道筑紫野インターチェンジから20分

太宰府の碇石(蒙古碇石)  太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館 ( 福岡県 )

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太宰府の碇石(蒙古碇石)  太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。碇石は太宰府市宰府4丁目の太宰府天満宮菅公歴史館に展示されている。

太宰府の碇石(蒙古碇石) だざいふ
太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館 碇石(花崗岩) 長222㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB(みさき道人) 館内展示 出土地:不明/やや偏平な印象を受ける碇石で、表面はやや粗いノミ痕を残す 2 C

大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区)  筑紫野市立明寺 ( 福岡県 )

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大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区)  筑紫野市立明寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。筑紫野市の県道112号六反交差点近く、イタリアンレストラン”ポルタータ”駐車場奥に史跡説明板があった。現地一部展示史跡指定地は、筑紫野市HPのとおり立明寺地区とあるが、市史跡の写真は良く見ると、史跡説明板のこの場所である。
筑紫野市教育部文化情報発信課に確認すると、ここに間違いなく、草刈りは6月にしかしないと言う。史跡指定地のため私が勝手に草刈りするわけにはいかず、市へ画像提供を依頼してきたので、とりあえずは、現況写真をそのまま載せる。

大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区) だざいふ、すざく
筑紫野市 道路 延長約2㎞,幅35.6m 奈良時代 市史跡 市教委 ごく一部(西側溝の一部)のみ現地展示 古代の代表的な大路(道幅は、平城京や平安京の朱雀大路の半分)/ 「大宰府」と標記したのは、歴史的名称と文化財指定名称に従ったため 4 B

筑紫野市HPの「文化財・芸術・歴史」による説明は、次のとおり。 

大宰府条坊跡朱雀大路だざいふじょうぼうあとすざくおおじ[立明寺地区](市史跡)

大宰府政庁が現在の都府楼跡といわれている場所に置かれたのは、我が国が朝鮮半島の白村江において、唐・新羅に大敗した天智てんじ2年(663)の直後です。以降、大宰府は軍事拠点としてだけではなく、九州を統括するための重要な役割を持ち、政治・経済・文化の面でも強く中央の影響を受けていました。平城京や平安京と同じように、碁盤の目のような方形の都市計画がなされ、その規模は南北22条(約2.4キロメートル)、東西(約2.6キロメートル)で、政庁の全面から南北に条坊の基準となる大きな道が設置されました。その道は朱雀大路とよばれ、幅は約35メートルもありました。
この遺跡は、朱雀大路の西側溝の一部にあたる重要な遺跡であるため、指定して恒久的に保存されることになりました。なお、史跡名の立明寺地区は、旧大字二日市内にあった小字名にもとづく名称です。
[『筑紫野の指定文化財』より]
写真 朱雀大路の西側溝の一部
このページに関するお問い合わせ先 担当部署: 教育部 文化情報発信課

釜蓋の道標  大野城市大城 ( 福岡県 )

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釜蓋の道標  大野城市大城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道574号大城4丁目交差点の南側、インターゴルフクラブへの市道へ入る。場所がわかりにくいので、所在図を載せる。

釜蓋の道標 かまぶた
大野城市 <田中道> 石道標 延享元(1744) 市史跡 市教委/WEB 20mほど移設 「從是、左 うみミち/右 やまえ□」「施主加満ふた衆」/上部に「塞の神」(道の神)を陽刻 3 C