月別アーカイブ: 2008年4月

長崎市立山里小学校と如己堂の風景  長崎市橋口町・上野町

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長崎市立山里小学校と如己堂の風景  長崎市橋口町・上野町

長崎市橋口町にある長崎市立山里小学校は、大橋電停下車徒歩約6分。爆心地から北へ約600m。被爆により児童約1300人、教師28人が亡くなった。
被爆校舎は現在の運動場のところにあったが、平成元年に新校舎が高台へ建て替えられている。
学校の敷地内には山里小学校平和に関する施設・碑として、次のものがある。
①山里国民学校説明板、②防空ごう、③あの子らの碑、④あの子らの丘、⑤永井桜、⑥旧山里小学校校舎のレリーフ、⑦児童記念館(資料室)

山里小学校近く上野町には、自身も原爆の後遺症に苦しみながら、被爆者救護に尽力し、「長崎の鐘」など多くの著書がある故永井隆博士の旧居「如己堂」があり、長崎市永井隆記念館が併設されている。坂下に浦上天主堂が見える。

長崎市立山里小学校の「永井桜」  長崎市橋口町

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長崎市立山里小学校の「永井桜」  長崎市橋口町

長崎市橋口町にある長崎市立山里小学校は、大橋電停下車徒歩約6分。爆心地から北へ約600m。被爆により児童約1300人、教師28人が亡くなった。
被爆校舎は現在の運動場のところにあったが、平成元年に新校舎が高台へ建て替えられている。

昭和23年に永井隆博士が学校や地域に苗木を贈った「永井桜」は、永井隆記念館によると、今30本ほどしか残っていないとみられる。
山里小学校には50本寄贈されたが、現在確認できるのは旧校門付近の5本だけとなっている。この坂は桜にちなんで「永井坂」と呼ばれている。
なお、今の運動場にあるクスノキは、被爆校舎の裏にあったため、生き残った木らしい。
2008年4月2日の長崎新聞”ながさきニュース”の記事は次のとおり。

命の尊さ伝え続けて 長崎・山里小で「永井桜」咲く

「長崎の鐘」などの著作で知られる被爆医師・故永井隆博士(一九〇八−五一年)が、壊滅した町の復興を願い長崎市立山里小(橋口町)などに贈った「永井桜」が、博士生誕百年のことしも美しい花を咲かせた。
永井博士は一九四八年、著書の印税を投じ浦上地区の教会や学校などに計千本のソメイヨシノの苗木を贈った。山里小には児童の手で約五十本が植えられ、学校前バス停から続く上り坂と旧校門前の桜並木が春の風物詩となった。

ソメイヨシノの寿命は約六十年ともいわれ、山里小の永井桜も倒れたり枯死が相次いでいる。同小五年時に植樹した長崎市泉一丁目の被爆者・榊安彦さん(71)によると、現在確認できるのは旧校門付近の五本だけ。
榊さんが植えた桜は現在、高さ五メートル、幹回り二メートルの大木に成長。この春も先週から見事な花を咲かせ始めた。榊さんは「いつまでも咲き、子どもたちに命の尊さを教えてほしい」とうれしそうに眺めていた。

さが名木100選  31 岩屋観音のイロハモミジ  鹿島市山浦

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さが名木100選  31 岩屋観音のイロハモミジ  鹿島市山浦

鹿島市山浦の岩屋観音は、国道207号線鹿島バイパスの能古見郵便局前交差点から平谷黒木トンネルを越して大村へ行く国道444号線へ入る。塩田や嬉野との分岐を過ぎ貝瀬バス停まで行く。ここに徒歩による参詣道の案内板がある。

車は少し行くと、左側に白い建物の消防分団車庫があり、鋭角に左折し山手へ入る。2.6kmほど進むと、小さな「←岩屋山」の標識により左折。すぐ道幅の狭い未舗装のガタガタな林道となる。山腹を約1.5km、やっと岩屋観音前に着く。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

31 岩屋観音のイロハモミジ
・所 在 地  鹿島市山浦岩屋観音
・推定樹齢   350年
・大 き さ  樹高 20.5m  幹回り 3.3m  枝張り 21.5m
・登録番号   0794010
岩屋山興法寺(通称:岩屋観音)は、現在の霊巌院を含む地にあった金剛勝院の奥の院と考えられ、覚鍐上人修行の地とされている。この木はその境内にあり、佐賀県内のイロハモミジでは最古のものと思われる。
市天然記念物(平成13年3月30日)

さが名木100選  93 下童聖観音のケンポナシ  嬉野市塩田町谷所

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さが名木100選  93 下童聖観音のケンポナシ  嬉野市塩田町谷所

嬉野市塩田町谷所の下童(げどう)地区にある聖観音は、嬉野市役所近く塩田町五町田交差点から谷所へ行く県道208号線に入る。五町田小学校を過ぎた「石垣」バス停から左折。この道を進むと下童公民館があり、左の谷間にケンポナシの高木が見える。
参道を行くと奥の高台に聖観音菩薩の堂があった。公民館前の道は、鹿島市国道207号線鹿島バイパス黒川橋交差点にすぐ出た。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

93 下童聖観音のケンポナシ
・所 在 地  塩田町谷所甲725
・推定樹齢   200年
・大 き さ  樹高 10m  幹回り 2.8m  枝張り 23m
・登録番号   4833006
ケンポナシは、塩田町下童区の庵の一角に立っている。その実は梨の味とそっくりで、地元では以前から秋になると、よく食されており、永く親しまれてきた大木である。

さが名木100選  94 味島神社のスタジイ  嬉野市塩田町谷所

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さが名木100選  94 味島神社のスタジイ  嬉野市塩田町谷所

嬉野市塩田町谷所の味島神社は、嬉野市役所近く塩田町五町田交差点から谷所へ行く県道208号線に入る。鹿島市からは国道207号線鹿島バイパス黒川橋交差点から県道41号線に入る。
両方の県道は、谷所の塩田分岐交差点で合う。鹿島側に少し戻ると「平山」バス停があり、北方の真直ぐな車道奥が味島神社の入口である。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

94 味島神社のスタジイ
・所 在 地  塩田町谷所甲1706
・推定樹齢   700年
・大 き さ  樹高 16m  幹回り 4.7m  枝張り 20m
・登録番号   484405
現在、塩田町で登録木の中で最も樹齢が古い木である。また、シイノキは町木であるため、特に地域住民に親しまれている。

さが名木100選  95 唐泉山のシイ  嬉野市塩田町唐泉山

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さが名木100選  95 唐泉山のシイ  嬉野市塩田町唐泉山

嬉野市塩田町唐泉山は、塩田町と嬉野町の境にある標高410mの山。山頂付近にシイの大木の天然林があり、一帯が県指定天然記念物となって保護されている。
国道34号線嬉野温泉の築城交差点から鳥越トンネルを越え、鹿島へ抜ける県道41号線に入る。鳥越トンネルの上北方の山が唐泉山。
トンネルを出て右側の峠へ上る旧県道に入り、カーブの多い道を登って行く。途中2箇所の林道分岐に道標があり、終点の駐車場に着く。

これから山頂までは、急斜面階段のみの遊歩道を15分。天然林を探勝しながら行くがかなりきつい。山頂神社も伐採してなく展望台はない。名木に指定された最も大きい幹回り6mの木は神社先にある。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

95 唐泉山のシイ
・所 在 地  塩田町唐泉山
・推定樹齢   370年
・大 き さ  樹高 25m  幹回り 6m  枝張り 20m
・登録番号   48560
塩田町を代表する山、唐泉山の山頂付近に存在し、椎の天然林の中でもひときわ目立つ大きな大木である。
県天然記念物(昭和39年5月23日指定)

鳥越トンネル近くにある「しあんばし」  嬉野市塩田町谷所鳥越

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鳥越トンネル近くにあった「しあんばし」  嬉野市塩田町谷所鳥越

国道207号線鹿島バイパスの黒川橋交差点から、鳥越トンネルを越して嬉野温泉へ出る県道41号線に入る。八天神社前を過ぎ鳥越トンネルのすぐ手前に旧県道の道が残り、右下にカーブした道を下ると小川をまたぐ所がある。
写真のとおり「しあんばし」と刻んだ標石はここにある。表面「徒歩近道 →嬉野 吉田 しあんばし 県道舗装記念」、裏面「昭和四十七年九月竣工 森 仁平建立 当時八十三才」。

「思案橋」といえば、夜の長崎を象徴する橋。もともと昔は丸山花街へ行くか行かないか思案した橋。昭和43年頃、前川清とクールファイブ「思案橋ブルース」や青江三奈「長崎ブルース」の曲で有名となった。暗渠で橋は残らないのに、観光客用に欄干を建てガス灯を点けた。

嬉野市鳥越のこの「しあんばし」のネーミングは、年代的に長崎の橋を考えてしたような感じがする。もちろん今は橋は残らず土手盛りの道路。そんな名の橋がほんとうに昔からあったのか地元で聞いてもかわからなかった。
しかし、粋なご老人の計らい。「徒歩近道」道標を建てられた。長崎から来た私は、少し楽しく思え、碑の写真を写した。