点描画像 轟の滝・深堀城山の俵石・白木峰・唐古の蓮
画像サイズのテストのため作成。写真上から轟の滝・深堀城山の俵石・白木峰・唐古の蓮
点描画像 轟の滝・深堀城山の俵石・白木峰・唐古の蓮
画像サイズのテストのため作成。写真上から轟の滝・深堀城山の俵石・白木峰・唐古の蓮
長崎駅前から立山へ上る 福済寺観音・高木家墓碑・望呉山碑
金比羅山へ登る1つのルート。長崎駅前交通会館に集合。福済寺・本蓮寺墓地・ホテル長崎の立山へと上がった。墓地内の石段道を上がるごとに、長崎港と市街の全景が広がり、歴史散歩ができる。
ホテル長崎の展望浴場西直下の本蓮寺墓地最上段となる高木家墓地に、「永亮院殿一丸徹春居士」の大きな墓碑がある。誰かと思ったら、脇に「前高木彦右衛門尉藤永貞」と彫られている。
これは勘違いだった。長崎喧嘩騒動で深堀義士から討ち取られた長崎町年寄「高木彦右衛門」は「貞親」といい、「永貞」は先代の職にあった伯父に当る。その人の高木家墓地である。
「貞親」の一子彦八郎は、家財家屋敷没収・長崎五里四方追放となり、天草から大村へと流れ亡くなったと同騒動記にある。当の「貞親」の墓はあるのだろうか。
「望呉山」碑は、ホテル横の最近建てられた老人ホーム「プレジールの丘」の赤い建物のすぐ奥にある。山の古名は「万寿山」。唐僧木庵は石穀山と命名したが、鼓缶子が大岩に「望呉山」と刻んだことから望呉山とも呼ばれたと「長崎学ハンドブック」にあった。
金比羅山の珍しい石 三本足鳥居・狛犬・従是上宮道・無凡山石・神社境石など
市中央部の山「金比羅山」は、標高366.3m。長崎市民に古くからハタ揚げ・学校遠足・七高山めぐりなどで親しまれている。 明暦3年(1657)に唐僧木庵(もくあん)が登り、長崎の景色を絶賛して名づけた「無凡山」の字が、山頂上宮の横の岩に刻まれている。
立山公園から金比羅山に登り、途中で見かけた珍しい石造物や標石と展望である。長崎金星観測碑・観測台などは別項とした。写真上から
三本足石燈籠
全高4mを越す長崎最大のもの。唐船海上往来安全祈願。文化三年(1806)建立
琴平神社前の狛犬
琴平神社は三井物産が明治18年(1885)勧進。飄軽な格好の狛犬一対は秀逸。
「従是上宮道」標石
金比羅神社の社殿裏となり、神社から遠足広場に行く途中にある。
ドンク岩
遠足広場上の奇岩。烏帽子にも似る。山頂の白い鳥居が見え、山頂までは0.6km。
「本紙屋町御接待場」と「牛塚」碑
山頂途中の不動明王の祠の両脇に見かけた。
丸紋のある石
山頂すぐ手前。直径50cm位の丸紋の彫り、中に「梵」らしき字あり。
年輪の模様?のある石
山頂の上宮手前の石に見た。年輪のようなのが縦になった形。自然にできたものか。
「無凡山」の刻み岩
山頂上宮の左側にはみ出した岩面にある。読み難いが「無凡山」「木庵書」と確かに彫 りがある。
金刀比羅上宮の内部
金網の奥に古めかしい額と珍しい彩色の彫りの岩が見られた。
「金刀比羅神社社有地」境石
山頂を越し、西山と分かれ西山台への道に入った途端見つけた。
戸泊公民館「岩河の地蔵」丸紋の石は経塚か
長崎市深堀1丁目戸泊公民館入口の左側に、数体の石仏と共に高さ70cm位の珍しい石が据えられている。岩永弘著「長崎周辺 ”石・岩・陰陽石”」2002年刊、41頁は次のように記している。
「砂岩石のようで剥離した所があるが、丸い紋のような標しがあり、曰くありそうである。これらを管理されている主婦の話によると、先々代の頃、某地から担いできたとかで、昔の人は強かった、という程度の話しか聞けなかった。鞍形状でなんとなく気を引く石である」
深堀の識者に聞いてみた。丸紋を彫った自然石は、墓の傍に一緒に埋めた経筒の「経塚」である。深堀菩提寺奥墓地の古い墓に、たくさん見つけた。丸紋の中に梵字や氏を入れたのもあるらしい。
戸泊上の墓地はここも菩提寺墓地で、数は少ないが同じものがあった。末石町の江川地区公民館地蔵堂前にもある。
深堀地区だけのものでもない。戦跡調査の写真から、島原半島加津佐岩戸山にもあるのがわかった。蛇紋岩の平石が多い。戸泊のは砂岩の鞍形状で幅が広く珍しい。前の川は「岩の川」といい、大正年間、水害がひどかった。地蔵はそのため「岩河(いわんご)の地蔵」といい、水害犠牲者の供養塔ではないだろうか。
インターネットで調べてみると、同じようなものが「一字一石塔」として全国にあるようである。巨大なものは大分県安心院町に「佐田の京石」があった。「経塚」ないし「経塔」で検索し、参照していただきたい。
[所在地:長崎市野母崎樺島町 京崎白浜海岸上]
・四五口径三年式十二糎砲を山頂上部山腹平場に露天で設置
・第一〇二分隊飛矢正彦兵曹長部隊
・1号砲台:山頂上部に5m方形の土杭1基を確認
・2号砲台:下位の平場に設置確認
・砲は天草のみで露天設置を目撃(森・荒木さん証言)
(高谷氏資料から)
[所在地:雲仙市小浜 富津]
・四五口径三年式十二糎砲1門を「額栗岩」周辺高台に露天で設置
・設置箇所は不明であるが、第一〇二分隊寺田修少尉の部隊が「釜山砲台」と同時展開
(高谷氏資料から)
[所在地:諫早市飯盛 船津]
・四五口径三年式十二糎砲1門設置
・第一〇一分隊福岡清平少尉の部隊が「有喜砲台」と同時展開
・砲台は「深谷」に設置 ※農地改良で消滅
・船津元漁協付近に兵舎、下釜に弾薬庫
(高谷氏資料から)
[所在地:南雲仙市南串山京泊]
・第65震洋隊 岩切部隊
・昭和20年8月15日、乙飛20期生50名が震洋25隻で進駐するが、終戦
・壕前を整備し、祈念碑建立
・昭和20年3月18日〜5月26日までに、京泊港両岸の岩山に格納壕を掘削・小富士隊
・現存5基を確認
(高谷氏資料・画像から)
[所在地:長崎市脇岬町]
・防空監視部の特設見張所が配置
・遠見山山頂部に電波探知機乙型の基礎が現存
・通信地下壕4基、溜升、兵舎跡が現存
・地下電探室の構造が判明
(高谷氏資料・画像から)
[所在地:長崎市野母崎樺島町]
・京崎の白浜海岸部に3基の横穴壕が現存
・地元の森さんの証言ではレール上の特攻人間魚雷「回天」を目撃
・今後、追調査が必要
(高谷氏資料・画像から)