長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

2−D 城山台団地背後の山の稜線上 (確認 長崎要塞第二地帯標 第六号)

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2−D 城山台団地背後の山の稜線上 (確認 長崎要塞第二地帯標 第六号)

略図は福田村と長崎市境に標石位置を示している。小江原から稲佐山の縦走路稜線と判断し、車で小江原Sマートから霊園と水道タンクへ行く林道に入った。タンク地点でコンクリート舗装は途切れ砂利道を歩く。尾根を回って四叉路となりゴルフ場の方まで探したが見あたらない。戻って反対側の小江原の方へ防火帯を探した。

防火帯を登ったところに尾根分岐があり、稲佐山の縦走路は東へ行く。これから平坦な防火帯の中の道が続く。標石は旧版地図296.6m地点でないかと推測した。途中で南稜平野氏ら2人と会ったが、標石は全く見ないと言う。まもなく白い反射板鉄塔が建ち、ここが標高地である。引き返そうと思ったが、しばらく200mほど歩いた。高橋氏が標石を見つけた。

ブルドーザーがならした防火帯の高さ1m位左上斜面の木の根元に横倒し、角柱の一部を覗かせていた。工事で無惨に半分に壊され放置されていた。刻面の字は欠けてない。標石は「長崎要塞第二地帯標」「第六号」である。下部は土に埋もれすぐ下にあったので掘り起こした。先へ行くと小江原団地が一望できる。団地から上がった方が近いが、そう来た場合、見過ごした恐れがある。標石を写真に収め、元の位置に戻した。この標石は「長崎県の山歩き」旧版にも記述はない。私も覚えがない。江越先生へ話すと40年位前あったと記憶していた。

(注)以上は平成18年3月の報告。平成19年7月25日再訪した。小江原の登山口から入り緩やかな登りを15分ほどで標石の地点へ着く。誰が気を利かして動かしたか、標石は縦走路の道脇に出されていた。

2−A 小江の野島 (確認 長崎第二地帯標 第一号)

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2−A 小江の野島 (確認 長崎第二地帯標 第一号)

かつて小江の湾にあった小さな島。暖海流の影響が大きく「野島樹叢」として市天然記念物に指定されている。今は埋立てられ西部ガスの天然ガス供給基地などができている。島の姿は埋立地内にそのまま残る。高橋氏は市からフェンスの鍵を開けてもらい調査したが、標石は見あたらなかった。

地元で聞いても知っている人はいなく、標石はないと思っていたところ、平成18年3月20日大手町木村氏が確実な情報を寄せてくれた。長崎文献社刊「長崎石物語」著者で自然史研究の布袋厚氏が5年前、野島地質調査の際、1級基準点59のピークで標石を見たと記憶されているという。翌21日木村氏と確認に行った。
標石はあった。「長崎要塞第二(刻面は第二区)地帯標」「第一号」で、「昭和十四年三月」である。「昭和」の年月は珍しく、資料のとおり、告示3次改正の一時期のものと判断された。18cm角、高さ70cmある。 

2−J 埋設で番号不明の「長崎要塞第二地帯標」 星取墓地公園道脇

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2−J 星取墓地公園道脇 (確認 長崎要塞第二地帯標 下部埋設番号不明)

略図では小ヶ倉村境に描かれている。「2−特」大崎林道鹿尾町尾根で、略図外の標石が見つかったため、風頭町と線を結び、星取山に間違いないと推定して調査した。
長崎統制無線中継所そば三角点270.0mと二本松側尾根には見当たらない。戻って星取バス停側の大カーブ地点から山頂へ以前の山道を歩いたが中継所で途切れ、ここにもなかった。その帰り星取墓地公園へ道が分かれていたので墓地に入った。

この墓地道脇の肩の高さの石垣上に、標石が頭を覗かせていたのを高橋氏が見つけた。下部は石垣と土に埋め込まれている。他の標石と異なる立派な白御影石である。21cm×17cm角。地上上部35cmの刻面は「2ndZ 長」「第」「陸」「明治三」だけしか読み取れない。勝手に掘り出すわけにいかず、現在、高橋氏が墓地(大正寺管理墓地)管理者や長崎県と交渉中だが埒があかない。近くには基準点があった。

なお、地元の話でここは昭和30年代クレー射撃場だったらしい。墓地の南東下は送電塔が建ち、根元の木立の中に石を積んだ古い境塚のようなもの(庭石の野積みか?)もあった。

神ノ島周辺にある「長崎要塞第一地帯標」と「陸軍」の標石

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神ノ島周辺に見られる明治32年建陸軍省「長崎要塞第一地帯標」と「陸軍」の標石の所在は、次のとおり。

1−A   四郎ケ島北側海岸 (確認 長崎要塞第一地帯標 第一号)
神ノ島から四郎ケ島へ繋ぐ佐賀藩が築いた大石積みの海道約270mは、コンクリートによって護岸され、これを渡りきってすぐ右手海岸の岩の上に建っている。岩自体も少し高く、神ノ島側を向いており、神ノ島側からすぐ望見できる。

1−A−2 四郎ケ島小島の小ピーク上 (確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)
平成18年12月に追加して発見。四郎ケ島の東に台場のため埋立てられ陸続きとなっている小島は2つのピークがあり、左の低いピークの岩場上にこの標石がある。釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。先の海道からもピークの頂上に識別できる。

1−B   同上海岸神ノ島側 (確認 長崎要塞第一地帯標 第二十九号)
四郎ケ島の標石のちょうど対面となる。海道にかかる道のすぐ右脇となるが、竹が密生した中にあるので気をつけて探す。上の小高いピークにも佐賀藩砲台があった跡がある。その入口道である。

1−C   小瀬戸の天神天満宮裏畑地 (確認 長崎要塞第一地帯標 第七号)
長崎市小榊支所の左から裏手の道に入り、広い墓地の中を通り上る。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、今は天神天満宮が祀られている。その背後の畑地の中に建つ。みなと坂団地から行く方が近い。神ノ島の全景がよく見える。

1−Bの要塞地帯標近くにある「陸軍」「防二」の標石
1年ほど前、同要塞地帯標を見に行ったとき、偶然にこの標石をすぐ近くで見つけた。海岸の石にまぎれて頭だけ見せていた。掘って字を確認すると「陸軍」「防二」と読めた。大きな角柱で白御影石。高橋氏によると「防衛条例」により設置された標柱らしい。

神之島修道院墓地奥にある「陸軍」の小さな標石
神ノ島の突端、四郎ケ島に渡る手前に数軒の集落がある。山上にある神の島公園から下ると、集落にかかる前に右上の墓地に入るコンクリート道がある。神之島修道院墓地で規模は大きい。墓地の一番先の方まで行ける道があり、墓奥を探すとこの標石がある。陸軍用地境界標と思われる。

陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (1)

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陸軍省要塞標石探し 佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (1)

佐世保市木宮町の高橋輝吉氏(80歳)は、兄を船舶工兵として戦死させたこともあり、国策によって再び生命や自由が脅かされる忌わしい時代が招来しないよう、その時代の証人として現在も残っている明治32年などに陸軍省が建立した各地の要塞地帯(区域)標石探しを、長年にわたってされている。

氏の地道な研究を伝えた最近の新聞記事が、上のとおりあった。佐世保を中心に九州が主となる。長崎要塞関係ではその後、私との合同調査によって、合計23本が現存していることを確認している。

明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査結果

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明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査結果

平成17年12月から佐世保市の高橋輝吉氏と合同調査を行い、現在までの次のとおり標石の現存を確認している。
第一地帯標 確認 6本  第二地帯標 確認 7本  区 域 標 確認 10本 計 23本

この標石の「所在地一覧表」と、調査の資料となった「長崎要塞地帯略図」は上記のとおり。
写真は、四郎ヶ島北側海岸に建つ「陸軍省」「長崎要塞第一地帯標」「第一号」「明治三十二年六月十日」

「長崎要塞地帯(区域)標」の標石が新たに2本見つかる

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今回新たに見つかった「長崎要塞地帯(区域)標」2本の標石

(1)1—A—2  四郎ヶ島小島の小ピーク上  (確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)
魚見岳と天門峰に残る明治9年「地理局測点」と同じ測点が、四郎ヶ島東の小島を埋め立てた小島台場跡にも設置された長崎歴史文化博物館の史料があり、平成18年12月にこの現地調査をした。台場跡とこの小さな島の海岸・島内を探した。「地理局測点」の形跡はなかったが、小島には2つのピークがあり、東側突端の低いピークの岩場上に要塞地帯標があった。神の島側内海の釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。
「長崎要塞第一地帯標 第二号」である。同「第一号」は四郎ヶ島の北側海岸、海道を渡った右手にある。第一地帯標は「長崎要塞地帯略図」に表われず、探してまわるしかない。海道に戻ってこの小島小ピークを眺めてみると、標石の姿は見えて識別できた。何で第一号のすぐ近くにありながら、今までわからなかったか。佐世保高橋輝吉氏も気づいていなく、後日佐世保から来て確認した。

(2)区—特—2 日見配水タンク場上の道脇  (確認 長崎要塞区域標 第二十九号)
山名は「日見山」と思われるが、日見小学校背後の山。上方に水道局配水タンク場が見え、コンクリート坂段が長い直線で上がっている。この取り付きまで日見霊園前から急な車道を登る。びわをレールで下ろす作業小屋があり、中を通って坂段を327段ほど登ると配水タンク場。フェンス左を周回する山道があり、上のピークへ急な尾根道は続き、約5分ほど登った竹林道脇に標石はある。
「長崎要塞区域標 第二十九号」である。「長崎要塞地帯略図」に○印のあった区—1は旧矢上と日見の村界中尾尾根で「第三十二号」、同区—Jは網場金比羅岳山頂で「第二十八号」が現存。双方の線上となり号数も合うが、地図に○印のない地点で探すのは困難だったろう。
この標石の存在を教えてくれたのは、田中町織田武人先生。上の山一帯は日見城址。以前この調査で山に入り知っておられた。タンク場が出丸跡となる。