天草の風景・史跡」カテゴリーアーカイブ

龍ヶ岳  上天草市龍ヶ岳町龍ヶ岳

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

龍ヶ岳  上天草市龍ヶ岳町龍ヶ岳

龍ヶ岳は、天草上島南端に位置し、標高470mの高峰。干巌山などと天草における2大展望所の1つ。国指定名勝。国道266号線に登山道路はいろいろあるが、私は龍ヶ岳町鳴川から上がり、姫戸町二間戸へ下った。
熊本県観光サイト「なごみ紀行 くまもと」による説明は次のとおり。

龍ヶ岳山頂広場

不知火海に面した、標高470mの龍ヶ岳山頂にある公園です。天草海の大小さまざまな島、対岸の八代や雲仙普賢岳までもが見える眺望のよさです。この山頂展望所を訪れた詩人野口雨情も「阿蘇や雲仙霧島までも龍ヶ岳からひとながめ」と詩を残しています。山頂公園内には、ロッジ4棟・バンガロー10棟・テントサイトがそろっているキャンプ場があります。ミューイ天文台近くにあります。桜の名所としても知られています。

山頂からは樋島や御所浦島など八代海に浮かぶ島々が一望でき、晴れた日には遠く、阿蘇・雲仙・霧島なども眺められ、国の名勝に指定されています。

所在地 上天草市龍ヶ岳町龍ヶ岳

倉 岳  天草市倉岳町棚底  

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

倉 岳  天草市倉岳町棚底

天草最高峰の山、倉岳は標高682m。天草市倉岳町の背後にそびえる。倉岳への登山道路は倉岳町からと、反対の栖本町側からあり、山頂まで車で行ける。
旧倉岳町HPによる説明は次のとおり。山頂井戸「倉岳霊水」の説明は、現地石碑から。

天草最高峰の倉岳

「観海アルプス」と呼ばれる山々が連なる天草上島東海岸。 その一角を占めるのが天草最高峰の倉岳です。眼下に不知火海と点在する島々が広がります。島影の向こうから朝日が昇るさまは神秘的です。

◇ 倉岳霊水
昭和30年12月御所浦出身の日本山妙法寺近藤妙有法尼が、平和祈念の宝塔建立のため、倉岳町を訪れた際、倉岳神社に水がないと聞き、当山頂に向かって2時間に及ぶ祈りを奉げ、霊感を得て直ちに登山し、この場所を掘り下げたところ岩間から水がにじみ出た。
この霊水は未来永劫涸れることはないと法尼は言い残している。

百貫石(百貫様)  天草市本町本

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

百貫石(百貫様)  天草市本町本

あまたん氏HP「天草探見」(検索は「探検」でない)を見ていたら、この石の写真が出ていた。写真写りがよいので、本渡市平床地区へどんな石か見に行った。
本渡市街から天草空港の方へ向い、一の瀬交差点から県道44号本渡芦北線へ左折して入る。本町小学校や鈴木神社前を過ぎ、県道が山越えにかかりカーブする所まで進む。この手前に平床公民館があり、地区案内図に百貫石の位置を書いていた(黄線場所)。

後は自治会がつけた道標により進む。とにかく平床川上流部の支流(松の塚川)である。車道脇の木橋から歩き、植林地を登って10分。川の中央寄りに大きな石がドンとあった。
縦横8mほど。さほど大きくはない。どこにでもある石と思うが、伝説と石祠がある。地区が大切にしているから、やはりいい石であろう。周りに杉の大木が数本立つ。
登る途中に一の滝を見る。写真は忘れた。HP「百貫様の滝」によるとあと2つ、上流にある。
木橋入口の地元自治会説明板は次のとおり。

百貫様由来

平床川の源流、通称ゲダの迫の苔むした杉小立の中に百貫石と言う巨大な石がありました。
その頂点に慶応の御代より春日大明神をおまつりしています。
子供の引きつけには凄い力の霊験があると言われております。
その百貫石の下に昔から金の鳥が棲んでいて、一年に一度、大晦日の夜更けに石の下より出て羽ばたき水浴をすると言い伝えられています。
その水を飲むと長寿を保つ事ができるそうで、1930年代までは金の鳥の霊験にあやかりたいと、一家の主人が元旦の明け方、まだ暗いうちに必ず平床川の源流の水を汲み、お茶を沸かし、神棚に供え家族全員でいただき、一年間の無病息災を祈願したそうです。
現在では毎年4月8日に、平床地区民や各地区からの参詣者も多く境内一杯賑わっています。
この巨大な石は、実際は約750トンあり、貫に換算しますと20万貫になります。
2006年11月  平床自治会

明徳寺  天草市本渡町本戸馬場

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

明徳寺  天草市本渡町本戸馬場

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。
山門の地蔵さんの異人さんの顔や、参道、石の階段の十字の彫り物は、再び行って写してきた。十字は石段登り始めの6段目、中央寄り右に見られる。
最後の写真は、山門をくぐってある桁橋のような石敷き。

明徳寺

天草・島原の乱後、混乱した島民の心を安定させるため、当時天草を治めていた代官鈴木重成が仏教を広めるために建てた、天草で最初の禅寺。山門の地蔵さんは異人さんの顔をしており、「異人地蔵」と呼ばれています。また、この参道、石の階段に十字の彫り物がされており、踏み絵と同じく十字架を踏みながら明徳寺に登るようになっています。

所在地  天草市本渡町本戸馬場1148

東向寺  天草市本町新休

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

東向寺  天草市本町新休

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。

東向寺

天領時代、代官鈴木重成公が建立した4ヶ本寺随一の名刹である曹洞宗の寺で、県内有数の大きさを誇ります。徳川将軍家11代までの位牌が安置され、また、建立当時に描かれた約190枚の美しい天井画も見物です。ひな人形展や大晦日には、これらが一般開放され、多くの人で賑わいます。

所在地 天草市本町新休27−1

﨑津天主堂  天草市河浦町﨑津

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

﨑津天主堂  天草市河浦町﨑津

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。

﨑津天主堂

穏やかな羊角湾に臨む﨑津の海岸に建つ教会です。1569年、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教がこの地に広く伝えられ布教が行われました。1638年の禁教令以後は激しい迫害を受け、教会は踏み絵が行われる場所となりましたが、信徒たちは240年間、隠れキリシタンとして信仰を守りました。現在の建物は昭和9年(1934)、ハルプ神父によって改築されたもので、高い尖塔を持つ重厚なゴシック建築で、内部は畳敷きになっています。

近年、老朽化により修復工事に充てる寄付金の呼びかけ行われ、多くの方々の温かいご支援により平成17年6月に無事修復完了しました。堂内の撮影は禁止されています。

所在地 天草市河浦町﨑津574

大江天主堂  天草市天草町大江

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

大江天主堂  天草市天草町大江

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。

大江天主堂

現在の建物は昭和8年に完成したロマネスク様式白亜の天主堂です。宣教師として来日し、天草へのキリスト教伝導に生涯を捧げたガルニエ神父が私財を投じて建立しました。今でも天草キリシタンのシンボル的な存在であります。敷地内には、パーテルさんとして親しまれたガルニエ神父の像やルルドの聖母マリア像があります。北原白秋、吉井勇ら五人の詩人「五足の靴」の一行も、ガルニエ神父に会いにこの天主堂を訪れています。
堂内は、写真、ビデオ撮影禁止です。

クリスマスの時期になると周辺一帯は色とりどりのイルミネーションで飾られ、幻想的な雰囲気が包まれます。また、付近にはガルニエ神父の胸像やルルドの聖母像、天草ロザリオ館があります。堂内の撮影は禁止されています。

所在地 天草市天草町大江1782 

富岡吉利支丹供養碑(千人塚)  天草郡苓北町富岡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

富岡吉利支丹供養碑(千人塚)  天草郡苓北町富岡

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。

富岡吉利支丹供養碑(千人塚)

この碑を地元では首塚、又は千人塚と呼んでおり、寛永14年(1637)の天草島原の乱で命を失ったキリシタン一揆軍のの3分の1ほど、約3300人余の首が葬られています。天草・島原の乱から10年後の正保4年(1647)に、初代の代官鈴木重成の手によって供養碑が建てられ霊を慰めたと言われています。

所在地 天草郡苓北町富岡

富岡城跡  天草郡苓北町富岡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

富岡城跡  天草郡苓北町富岡

熊本県観光サイト”なごみ紀行 くまもと”による説明は次のとおり。

富 岡 城 跡

富岡城は別名臥竜城と呼ばれ、慶長9年(1604)天草統治の本拠地として肥前唐津の城主・寺沢志摩守広高によって築城されました。三方を海に囲まれ、一方だけが街に通じている天然の要塞です。寛永14年(1637)11月、天草四郎が率いる一揆軍の2度にわたる猛攻撃にも落城せず、やむなく一揆軍は島原へと渡っていきました。乱後、一時細川藩の預かり城となり、次の戸田伊賀守忠昌支配の寛文10年(1670)、三の丸を除いて取り壊しました。その後天領になると、明治維新まで代官役所の所在地として、天草統轄の中心になりました。

現在は石垣などの城跡だけが残っているだけですが、展望所から巴崎を望む風景は、「新くまもと百景」にも選ばれています。近くには幕府時代の「郡会所」だった建物の一部を移築した苓北町郷土資料館があり、古文書、隠れキリシタンの遺品、民俗資料等が展示してあります。

所在地 天草郡苓北町富岡