九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

国道445号により二本杉峠越え  熊本県五木村ほか ( 熊本県 )

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国道445号により二本杉峠越え  熊本県五木村ほか

相良村から帰りは、国道445号により五木村を通り二本杉峠(標高1100m)を越え、美里町へ出た。距離は
62.3km程度だが、途中はやはりバイクにとって、さらに「酷道」。3時間くらいかかった。まずは熊本フェリー最終便には間に合った。
写真は、国道445号の途中の風景。

チッソ川辺川第二発電所前橋  相良村四浦 ( 熊本県 )

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チッソ川辺川第二発電所前橋  相良村四浦

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。相良村役場から国道
445号線を9.3km北上、左手川辺川の対岸にチッソ川辺川第二発電所がある。

№1,515 チッソ川辺川第二発電所前橋

相良村四浦
橋長:12.0m  橋幅:7.4m  径間:5.0m 1.7m
架設:昭和10年以降
相良村役場から国道445号線を9.3Km北上、左手川辺川の対岸にチッソ川辺川第二発電所があります。

右側に大小2本の水路が見えますが、小さい方は木材運搬用として使われていたそうです。
水だけが左の水管へ流れ込み、木材は水路の方へ流れるようになっているそうです。
この発電所の取水口は、ずっと上流野々脇の堰堤のところにあり、川辺川ダムができれば、この取水口もダムの湖底に沈むため、この発電所も閉鎖されることになっているそうです。 発電所は沈みません。

谷水薬師  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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谷水薬師  あさぎり町上南字麓

現地説明板は、次のとおり。県道43号「麓」の次の「谷水薬師前」バス停から山手へ上がる。

谷水薬師
日本七大薬師のひとつと言われ、本尊は薬師如来です。
本堂は村の重要文化財に指定されています。また、周辺地域は村の名勝に指定され、史跡も数多くみられます。
この薬師堂は、中球磨の豪族・上村氏の菩提寺として応永32年(1425)弘尊上人が創建した谷水山東円寺の金堂に由来するといわれています。しかし、聖武天皇の御代(735年頃)に行基菩薩が開山したとか、桓武天皇の御領(790年頃)によって造営された六坊伽藍の名残りと言い伝えもあります。弘治3年(1557)上村氏滅亡の兵火や、近くは明治30年の失火など、幾度も焼失したにもかかわらず、その都度村人らの厚い信仰心によって再建されてきました。その信仰心は、いまなお村人の心の中に行き続け、郡内はもとより、遠く県外からも参詣者があとをたちません。

上南の道標  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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上南の道標  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストデータにある麓地区麓馬場通り角の、四角柱の上に笠と宝珠を載せる珍しい形態の「麓地区の道標塔」など2本は、前の記事とした。
麓地区には、あと1本「宝暦道標」があると、大門前の案内図(ズーム拡大)に示されていたので訪ねた。

県道43号を人吉側へNTT西日本上村交換所角まで少し戻る。ここの小橋脇に、道標はたしかにあった。カーブミラー下のペンペン草を払うとグラグラしていたが、「宝暦十一?年」など読み取れる。他の刻面は、写真のとおり。寸法は、20cm角、高さ70cm。
この小川が麓地区町割り境の堀となっており、案内図には「ホリクダ」と表示されている。堀の小川を伝って曲がると鉄砲小路へ通じていた。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストのデータに、次のとおり登載された。

上南の道標 うえみなみ
(球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(尖頭角柱) 高70㎝,幅19㎝,厚18㎝ 宝暦14(1764) WEB(みさき道人) 原位置? (左面)「従是、西 人吉/東 湯前、道」 1 –

上南の題目塔道標  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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上南の題目塔道標  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道33号あさぎり町深田小学校前から南東に、県道48号と県道260号により免田を通り上村小学校角まで行く。左折して県道43号を進むと、白髪神社前の麓バス停に着く。この山手一帯が麓地区である。

大門をくぐり、麓馬場通りをしばらく進むと、左手へ谷水薬師へ向かう道がある。この角に道標が2本ある。四角柱の上に笠と宝珠を載せる珍しい形態とは、これだろう。正面に「安永三年 奉寄進」右面に「従是 三番 谷水薬師」とか小さく刻む。塔身部分は、幅20×横22×高さ70cm。
あと1本は、四角柱でやや新しい。正面「左 薬師道」右面「是 南上村」とか大きく刻む。

上南の題目塔道標 うえみなみ
(球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(笠付き) 高70㎝(塔身のみ),幅20㎝,厚22㎝ 安永3(1774) WEB(みさき道人) 原位置? (右面下部右)「従是 三番/谷水薬師」/正面に「奉寄進」と陰刻/笠だけでなく宝珠も載せている 1 C  

麓地区の町割り遺構  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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麓地区の町割り遺構  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道33号あさぎり町深田小学校前から南東に、県道48号と県道260号により免田を通り上村小学校角まで行く。左折して県道43号を進むと、白髪神社前の麓バス停に着く。この山手一帯が麓地区である。

麓地区の町割り遺構 ふもと
(球磨)あさぎり町 麓城城下 石垣のある街路 15世紀中〜16世紀中? 町教委 小規模な修復 麓馬場、天神馬場(馬場は街路のこと)、鉄砲小路などに石垣が残る/道の両側の石垣上から通過する敵を攻撃するため 2 B

上村城址にある現地説明板は、次のとおり。

上村城址 あさぎり町史跡

南北朝時代(1332〜1392)の球磨郡は、上相良家(多良木)と下相良家(人吉)が南朝側と北朝側に分かれ、周りの豪族を引き入れて互いに争った時代でもありました。当時の上村は、三池兵庫助妻女の支配地でしたが、正平年中(1346〜1369)には、上村三十五町・八十石が人吉の相良定頼の領分となったことを『大日本古文書』に記録されています。
上村城は、麓城、亀城とも呼ばれる中世の山城で、麓集落の東南部に位置しています。いつ頃の築城かはわかりませんが、南北朝時代に相良氏の領地となったことで、その頃から人吉城の支城として使われていたものでしょう。城主には相良一族を配したと思われます。高城・中城・下城の三つの廓(平場)に分れていて、大手に通じる麓馬場と天神口馬場があり、大手の西手から堀切が東西に掘られ、さらに折れて南北に走っています。この堀を外堀として二つの馬場を包み込み、東の谷水川をはさんで壮大な山城を形成していました。このことから麓地区全体が城内であったようです。
室町時代、上村家第11代三河守直頼が城主となり、12代頼廉、13代頼興と続きました。
その頼興の嫡男で藤五郎頼重(のちの相良晴広)が相良宗家を継ぐことになり、14代左衛門大夫頼孝は、宗家の相良義陽(晴広の嫡男)に対して反乱を企てたことで上村家は没落、その後、上村城は、犬童美作頼安入道休矣(相良清兵衛の父)の居城となりました。
永禄9年(1566)には、相良清兵衛頼兄が誕生していますが、一説ではこの上村城で誕生したのではないかと考えられています。上村氏は、相良長頼の四男で四郎頼村を初代とし、12代頼廉(相良家第13代長毎の弟)を相良氏から迎えたことでさらに血縁が濃くなり、やがては、相良氏を上村晴広(相良氏第17代晴広)が養子に迎えられて相良宗家を継ぐことになりました。

武家屋敷の地割
上村城跡北西側の麓地区が城下にあたります。そこには中世の侍屋敷があったところで、敷地の地割や石垣・老木・水路など今でも残っていて歴史的に大変珍しい集落です。
上村城跡登城口から白髪神社へ向かうまっすぐな道の通りを『麓馬場通り』といい約350mあります。また、登城口から西へ向かう通りを『天神口馬場通り』といい約250mあります。通りの左右には、中世(南北朝〜桃山時代)、上村氏の重臣たちの屋敷が続き武家屋敷を構成していました。『馬場』とは、馬がまっすぐに走れる通りで、乗馬や馬術の訓練を行ったところの呼称といいます。
あさぎり町教育委員会    平成22年3月吉日建立

深田小防空壕跡  あさぎり町深田東 ( 熊本県 )

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深田小防空壕跡  あさぎり町深田東

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋の途中で見たものによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。あさぎり町深田の中心部、県道48号が分岐する角に深田小学校がある。校庭西側のアーチ2基は、防空壕跡だった。

深田小防空壕跡

球磨郡あさぎり町深田東
径間:1.2m  拱矢:0.4m  環厚:30cm

深田小学校の西側にアーチが2基あります。
もう一つのアーチは内部が少し見えます。
近所の方にお伺いしました。
戦時中の防空壕跡で、校庭の下に掘られているそうです。

立 岩 橋   あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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立 岩 橋   あさぎり町深田西

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。錦町境からあさぎり町深田西に入り、古町バス停を過ぎた球磨川沿いに特異な形の立岩がある。この立岩先の県道下に架かる。

№4,222 立岩橋 (架設当初名:新城橋)

球磨郡あさぎり町深田西
木上用水路
橋幅:5.2m  径間:3.64m  拱矢:1.85m  環厚:39cm(要石49cm)  輪石:17列   基礎H:1.75m
架設:大正11(1922)年
左が立岩の史跡
立岩の少し東側を水路が横切っています。上流から。奥にかすかにアーチが見えています。

立岩の舟留め遺構  あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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立岩の舟留め遺構  あさぎり町深田西

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。錦町との境からあさぎり町深田西に入って、古町バス停を過ぎた先の球磨川沿いに特異な形の立岩がある。
立岩の下に岩場が突き出て、船場だったようだが、草が茂ってどうしょうもない。説明標柱には「立岩の裏面には舟綱をつなぐ人工穴と「舟場」と刻まれた文字が残っている」とあるが、立岩の崖面ではどれかはっきりしなかった。

立岩の舟留め遺構 たていわ
(球磨)あさぎり町 球磨川 舟繋石 高・幅とも約10mの巨岩 江戸期 町史跡 町教委/WEB 保存状態良好 舟溜のくり抜き穴と、崖面に「舟場」の文字を刻む遺構/明治40の句「大根舟 続く炭舟 下り舟」(井上微笑)の碑も嵌め込んである 1 B

木上溝第一・第二・第三隧道  あさぎり町深田ほか ( 熊本県 )

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木上溝第一・第二・第三隧道  あさぎり町深田ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。
私は下流錦町木上側から調査して行ったが、下記「木上村史」の記述に合わせ、取入口の石坂堰からの写真に並べ変え報告する。

木上溝第一隧道 このえ
(球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長233.9m, 坑口 (高1.3m,幅1.5m) 内部(高3.5m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/溶結凝灰岩台地をくり抜いた隧道/放物線形状の入口/内部:曲折が多い 1 B

木上溝第二隧道 このえ
(球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長78.2m, 坑口 (高1.3m,幅1.4m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/溶結凝灰岩台地の崖下に放物線形状の入口を持つ/内部:数mおきに灯火を置いたと思われる直径20㎝ほどの半球形の掘込みがある 1 C

木上溝第三隧道 このえ
(球磨)あさぎり町・錦町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長477.4m, 坑口 (高約1.5m,幅1.6m),内部(最大高2.5m,幅2m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 1 B

(錦町で)木上溝第三隧道 このえ (球磨)錦町・あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長477.4m,坑口: 高約1.5m,幅1.6m,内部:最大高2.5m,幅2m 宝暦9(1759) あさぎり町教育委員会/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 1 B

木上溝の概要と歴史は、「木上村史」から次のような引用がある(歴史遺産を守るHP)。

木上溝は須恵村と深田村との境にある石坂堰から水を引き、県道の南側、庄屋を通り下里に来て、ここで第一の貫(ぬき)に入り、善正寺や深田小学校の丁度下をくぐり、銅山川の下を抜けてここから県道の北側を城村に至り、ここで再び第二の貫を通り、古町に出て、更に木上との村境近くで第三の貫に入り、平川に抜け、ここで県道の南側に移り、岩城まで流れ、再び県道の北側に移り、更に南側に移って十日市まで流れ球磨川に注いでいます。