長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1432 村山からの富士山 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1432 村山からの富士山 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1432 村山からの富士山
〔画像解説〕
写真中央に大きく富士山がそびえる構図だが、撮影位置等は不明。

目録番号:5367 山村からの富士山
〔画像解説〕
富士宮市村山あたりから富士山を遠望したものか。富士宮登山口から登る場合は、途中にある村山集落の村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)・大日堂(だいにちどう)へ参拝し登っていく。富士山の稜線には宝永山の突起が右側にあるため、村山あたりからの撮影で問題はないが、特徴のあるものが見えないため、撮影地点の特定は難しい。

■ 確認結果

目録番号:1432「村山からの富士山」と、目録番号:5367「山村からの富士山」(タイトルは「村山」に訂正が必要)は、ベアト撮影の同じ写真。
HP鮎川俊介氏の「幕末・明治の日本を歩く」は、ベアトが富士宮の村山を訪ねていることを、次のとおり記している。

『富士山よもやま話』遠藤秀男(静岡新聞社)によると、オランダ公使ポルスブルック一行の富士登山にベアトが随行した。江戸を出立し、横浜、吉原を通り、慶応3年(1867年)8月14日(9/11)の昼頃、富士宮の村山に到着した。村山で宿泊した一行は、翌15日に村山口登山道を登って富士登頂を目指すのだが、富士登山の時期としてはやや遅い。

途中の石室で宿泊し、16日に登頂したというが、「その記録はまだ見つかっていない」(『富士山よもやま話』)という。塩川論文にも「ポルスブルックは登山の記録は残していない」とある。
随行カメラマンのベアトが、その富士登山の時の写真(村山口から頂上までの)を1枚も残していないというのも不自然らしい。

以上からとりあえず、目録番号:5367「山村からの富士山」の画像解説どおりとして、現在の村山浅間神社から見た富士山の写真を、ブログ「ある日・ある時・ある場所で…」富士山すそ野ウォークより掲げてみる。

長崎外の古写真考 目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅

目録番号:5399 サンダース夫人とサンビーユ夫人
〔画像解説〕
二人の外国人女性が椅子に腰掛けたスタイルで撮影されている。サンダース婦人とサンビーユ婦人と記されるが詳細不明である。

■ 確認結果

目録番号:5398「パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅」と、目録番号:5399「サンダース夫人とサンビーユ夫人」は、ベアト等アルバムの続きから、「撮影地域:香港」と思われる。
サンビーユ夫人は、邸宅の夫人であろう。

「パゴダ島」は不明。タイのサムイ島最南端に建つパゴダは、海の安全を祈願して造られたそうだが、「パゴダ島」とは言わない。ほかに該当する地名がなく、香港と思われる。

香港港の「ダグラス号」記事で、目録番号:5395「S.A.が撮ったダグラス号」の「S.A.」は、人名ではないかとふれた。香港に邸宅がある「サンダース」か「サンビーユ」氏のことではないだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5391 ダグラス号

目録番号:5395 A.S.が撮影したダグラス号          (掲載略)

目録番号:5396 香港に到着したダグラス号

目録番号:5397 ディオュで座礁したダグラス号         (掲載略)

■ 確認結果

ベアト等アルバムの「ダグラス号」関係4作品。いずれも同じような光景であり、香港の港で撮影されたと思われる。
掲載を略した作品の、「A.S.」は人名、「ディオュ」は近くの地名のようだが、不明。

目録番号:5391「ダグラス号」と、目録番号:5396「香港に到着したダグラス号」は、同じ写真である。香港に到着したダグラス号を撮影しているなら、「撮影地域:香港」となろう。
目録番号:5397「ディオュで座礁したダグラス号」も、同じ写真である。
目録番号:5386「廈門港で座礁したアメリカ船」の作品もあるが、船は少し違うようだ。

長崎外の古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1433 原宿の庭
〔画像解説〕
純日本風の屋敷の庭園で、日本髪に着物姿の女性が4人、髷を結い羽織袴を着た男性が2人。記念写真風の構図である。

■ 確認結果

目録番号:1433「原宿の庭」は、「撮影地域:静岡」。具体的な場所は、沼津市原にある「帯笑園(たいしょうえん)」。旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園である。
厚木市所蔵のベアト写真集に、「原宿 帯笑園」と題されて掲載されている。

静岡県「しずおかネットテレビ/5ch」しずおかお楽しみ情報による説明は次のとおり。現在の写真も同から。 
帯笑園(たいしょうえん)
沼津市原にある帯笑園は、旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園として造園され、その美しさは幕末の博物学者シーボルトも絶賛したと伝えられています。当時の庭の在り方を示す、貴重な歴史資料ともいえるこの庭は、後世に残すべき日本の園芸文化の遺産です。

なお、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”は、この作品を次のとおり取り上げている。

…1867年富士登山の途中で静岡・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルックが長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。
79  静岡・原宿植松家の人々
9年ぶりの再会である。ベアトが同行した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブルックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No.78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

長崎外の古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2)
〔画像解説〕
田子の浦より見た富士山。現在の沼川、鈴川付近の橋。人力車と旅人を眺める人物は舟の船頭か。舟は比較的大きな和船で荷船であったと考えられる。

目録番号:1220 田子ノ浦沼川からの富士山(10)
〔画像解説〕
静岡県東部、駿河湾奧にある田子ノ浦橋と富士山。左端には3隻ほどの荷船も見える。万葉の歌人山部赤人が、歌枕に読み込んだ地としてあまりにも有名である。

■ 確認結果

田子ノ浦から富士山を写した作品は多い中、目録番号: 168「田子ノ浦沼川からの富士山(2)」だけ、「現在の沼川、鈴川付近の橋」と画像解説している。
鈴川付近の有名な橋「河合橋」ではない。
鈴川の「河合橋」は、 https://misakimichi.com/archives/2289

次の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」のとおり、この橋は、「田子ノ浦港(昔の吉原湊)手前の便道に架かっていた田子ノ浦橋(明治6年架橋)」である。
この点は、次HPが指摘しているので参照。

画廊アモン Sideway 古写真2  http://yass.m78.com/sideway/hakone/koshyashin2.html
上段の写真はお気に入りの1枚で、田子の浦からの富士山です。写真の説明には「現在の沼川、鈴川付近の橋」とあったので地図で調べたところ、富士山の方向に流れがあるのは和田川との合流後のわずかな区間だけでした。もし私の考えが正しいのなら、写っている上流部は和田川であり、すぐ先には左富士神社が有る筈です。下段の写真は、富士と港の見える公園から田子の浦港を写したものです。左端に写っているループ陸橋の辺りが古写真右側の松林だったのではないかと思っています。本来なら正面に富士山が写っている筈ですが、ご覧の様に雲に覆われてしまいました。

田子の浦から見る富士山(晴れた写真) http://mohsho.image.coocan.jp/tagonourafuji03.html
「富士と港の見える公園」から見た午後の富士山、2008年1月25日
「山頂は左端で尖り)、宝永山が右稜線に」が確認できる。

2枚目の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」は、1886年にA.ファサリが撮影した写真である。  http://mini1000.posterous.com/1880-gigazine
同上末尾の出典 Japon 1886 – Adolfo Farsari – a set on Flickr をクリックすると、A.ファサリによる1880年代の日本のさまざまな彩色写真を見ることができる。

長崎外の古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5276 門司連絡桟橋
〔画像解説〕
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前のポストやガス灯、人力車が印象的である。明治末〜大正初期の撮影と推定される。

■ 確認結果

目録番号:5276「門司連絡桟橋」のタイトルは、「門司十二景」絵葉書の題どおり、「門司連絡桟橋通り」とするべきだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4760 庭園と芸奴

目録番号:4447 王子の茶屋(扇屋)(9)
〔画像解説〕
キャプションに扇屋とある。落語「王子の狐」はこの扇屋を宣伝するPR落語。若い娘に化けた狐に声をかけて、扇屋に連れ込み、ご馳走を食べ、狐に酒を飲ませ、寝込んでいる間にドロンして狐に勘定を払わせようとする噺。後日饅頭を持って狐に謝りに行った時、「馬の糞かもしれない」と狐が言うのが落ちである。

■ 確認結果

目録番号:4760「庭園と芸奴」は、次の目録番号:4447「王子の茶屋(扇屋)(9)」の庭園と同じ
でないだろうか。
2器の庭園灯、立木、石の配置などが似ている。護岸の川は流れをまっすぐに変えているようである。

長崎外の古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4609 遊郭(2)
〔画像解説〕
右手の建物の1階が張見世になっているので妓楼だと思われるが、左側の建物は旅館のような造りになっている。詳細は不明。  

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
〔画像解説〕
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

■ 確認結果

目録番号:4609「遊郭(2)」は、次の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」(「神風楼」が正しい)のとおり、横浜の「高島町神風楼」ではないだろうか。
右側の屋上に緑色の手すりがある建物の造りが同じようである。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:4600 浦 賀

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4600 浦 賀

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4600 浦 賀

■ 確認結果

目録番号:4600「浦賀」は、写真左下に”URAGA”とある。画像解説がないが、写っている寺は、浦賀湾の景色から横須賀市西浦賀の「東福寺」と思われる。

現在の東福寺の展望と明治地形図は、HP「まちあるきの考古学|浦賀」から。
現在の東福寺の写真は、HP「黒船写真館 西浦賀散歩」から。同の横須賀市ホームページより引用文は次のとおり。

東福寺(延命山・曹洞宗太玄派)

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になりました。江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家 酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。

江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に 向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに 船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。
船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。この観音菩薩は三浦三十三観音の十三番札所になっています。かつて観音堂脇に湧いていた水は「甘露水」といわれた良い水でした。

長崎外の古写真考 目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1)
〔画像解説〕
愛宕神社東側社前の急斜面にある男坂。百段とあるが実際には86段。現在の坂は戦災後昭和41年のもの。講談・浪曲の『寛永三馬術』で有名。鳥居の傍らに茶店が見える。右手に緩やかに登っているのが女坂(109段)。

目録番号:1008 愛宕下の墓地
〔画像解説〕
愛宕下とは愛宕山付近の東部低地一帯の俗称。写真は愛宕山から墓地・寺院を俯瞰したもの。愛宕山山上には京都愛宕神社を勧請した愛宕神社がある。江戸時代には雪見月見の名所であった。

目録番号:1090 愛宕山頂の神社(1)
〔画像解説〕
愛宕山山上にある京都愛宕神社を勧請した愛宕神社。左後方に鳥居と社殿が見える。大きな鉄灯籠の前、子供たちがこちらを見ている。右手の休み処からは眺望が開けている。江戸時代、愛宕山は雪見月見の名所であった。

目録番号:4584 愛宕山頂の神社(2)
〔画像解説〕
『ファーイースト』の1871年6月12日(旧暦明治4年4月29日)号に貼られた写真を、後に複写彩色して販売したものと思われる。『ファーイースト』は鶏卵紙の写真を貼り付けた英字新聞(後に月刊絵入雑誌に変更)。当時は1枚ずつ太陽光で焼付けたので、数種のネガを使用している。子供が7人居る写真もある。奥は火伏せの神として信仰された愛宕神社。

■ 確認結果

目録番号:1009「愛宕山百段男坂(1)」、目録番号:1008「愛宕下の墓地」、目録番号:1090「愛宕山頂の神社(1)」は、横浜で発行された英字新聞”THE FAR EAST”Vol.2 No.2 1871/6/16 にいずれも掲載された作品。

4枚目の目録番号:4584「愛宕山頂の神社(2)」は、掲載月日が違うし、子供が7人いる3枚目の目録番号:1090「愛宕山頂の神社(1)」の方が、新聞の掲載写真のようである。
”THE FAR EAST”は、九州大学デジタルアーカイブ本山文庫から。

愛宕山は、標高25.7m。現在の東京都港区芝愛宕1丁目、国道1号(桜田通り)と日比谷通りの間を南北に通る愛宕通り沿いにある。江戸から明治期にかけては東京湾、市中の眺望にすぐれたらしいが、現在は木々に囲まれ、樹林の隙間から見える景色も、ビルに囲まれ山頂にいる実感はもてないらしい。