九州(薩南諸島)」カテゴリーアーカイブ

笠利町里の碇石  奄美市笠利町里 ( 鹿児島県 )

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笠利町里の碇石  奄美市笠利町里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名へ向かう。県道601号に右折、すぐの赤木名中学校裏手が「国指定史跡赤木名城跡」である。観音寺開山記念碑(開山和尚墓碑)に転用された碇石も、ここにあるので校庭右端から回って行く。

笠利町里の碇石 かさり、さと
奄美市(奄美大島) 赤木名観音寺跡 碇石(アルコース) 長110㎝ 中世(10-14世紀) WEB(みさき道人) /WEB 観音寺開山記念碑に転用 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ/アルコースは、花崗岩が風化・侵食作用を受け分解した後に二次堆積したもの 4 –

大島代官所・跡の石塀(大島仮屋)  奄美市笠利町里 ( 鹿児島県 )

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大島代官所・跡の石塀(大島仮屋)  奄美市笠利町里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名に行く。県道601号に左折、すぐのENEOS赤木GSから旧道に左折すると、石塀がある一角の空き地と民家があり、ここが「大島代官所(仮屋)・跡」である。
石塀は、高さ1m、幅1m、長さ28mほどが残っていた。

大島代官所・跡の石塀(大島仮屋) おおしま
奄美市(奄美大島) 笠利町里〔赤木名〕<大島代官所> 石塀(積層積、珊瑚) 長約28m,高約1m,幅約1m 寛永10(1633)以降 市史跡 WEB(みさき道人) /WEB 石塀のみ残る/部分的に崩壊 覇権役人の名称が代官に変わるのは、有馬丹後純定が寛永10(1633)に赴任してからで(『有馬丹後純定大嶋附肝属表代官相勤覚』による)、それに伴い奉行所から代官所になる→場所も笠利から移されるが、島内を転々とした→いつ赤木間に設けられたかは資料により異なる/奄美大島特有の珊瑚の積層積の石塀 2 C

笠利町屋仁の碇石  奄美市笠利町屋仁 ( 鹿児島県 )

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笠利町屋仁の碇石  奄美市笠利町屋仁

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美空港から県道601号に入り、島の北端を回り込むと笠利町屋仁に着く。この碇石は、屋仁小学校の校庭にベンチとして残る。

笠利町屋仁の碇石 かさり、やに
奄美市(奄美大島) 屋仁小学校・校庭 碇石(花崗岩) 長148㎝ 中世(10-14世紀) WEB(みさき道人) /WEB ベンチに転用/座席にあたる部分がつるつるに→碇石らしさなし 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ 4 –

大島奉行所・跡の石塀  奄美市笠利町笠利 ( 鹿児島県 )

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大島奉行所・跡の石塀  奄美市笠利町笠利

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによる説明は、次のとおり。奄美空港から県道601号を北へ進む。小高い丘のカトリック大笠利教会を過ぎ、県道からすぐ右手笠利集落へ下る坂の小道に入る。少し下って右に入ったところが「大島奉行所跡」である。

大島奉行所・跡の石塀 おおしま
奄美市(奄美大島) 笠利町笠利 <大島奉行所> 石塀 (積層積、珊瑚) 慶長18(1613) 市史跡 WEB(みさき道人) /WEB 石塀のみ残る/保存状態良好 奄美大島が薩摩藩の統治となり、最初に、法元仁右衛門が慶長15(1610)に奉行として赴任した際に、笠利に設けられた奉行所(『大島代官記』による)の石塀/奄美大島特有の珊瑚の積層積の石塀 2 B

現地説明板は、次のとおり。

大島奉行所跡  昭和46年町指定文化財  笠利町笠利
琉球王朝から薩摩藩の直轄地となって大島全体の行政機構がここに置かれた。慶長18年(1613年)寛永10年(1635年)の22年間大島統治の拠点となった。現在は石垣だけがその名残りをとどめている。
■■■教育委員会・笠利町歴史民俗資料館

ばしゃ山の枕状溶岩  奄美市笠利町用安 ( 鹿児島県 )

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ばしゃ山の枕状溶岩  奄美市笠利町用安

ブログ「鹿児島の自然と食」による記事の説明は、次のとおり。奄美市の北東部、赤尾木から県道82号に入る。笠利町に「ばしゃ山」というリゾート地があり、その近くの県道脇にある。白い史跡標柱がフェンス端に立っている。

奄美の枕状溶岩  2010-12-28 | 風景
奄美大島にある枕状溶岩を紹介します。
奄美空港から名瀬に向かうと、奄美市笠利町に、ばしゃ山というリゾート地があり、その近くの県道脇にあります。 
枕状溶岩は、マグマが海底に流れ出て、急に冷やされたために出来たものです。俵状溶岩とも言います。
溶岩といえば、桜島の溶岩のようにゴツゴツしたものが多いですが、枕あるいは俵を積んだような丸い溶岩です。
奄美大島は堆積岩からなる島で、溶岩はほとんどありませんが、それが枕状溶岩という珍しい溶岩です。
左(枕状溶岩)と右で、岩の形が違うのがわかると思います。右隣の岩は、奄美大島本来の堆積岩です。

神ノ子の石ウシュキ  奄美市笠利町用安 ( 鹿児島県 )

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神ノ子の石ウシュキ  奄美市笠利町用安

笠利町歴史民俗博物館編「郷土は博物館 —家族で訪ねる奄美・笠利町の文化財—」2003年発行の94頁による説明は、資料のとおり。この資料は、奄美市笠利総合支所からもらったが、「石ウシュキ」とは、石を置くとの意味があると聞いた。
奄美市の北東部、赤尾木からの県道82号が笠利町用安に入ると、海の駅レストラン ひわきがある。この前の海岸の大きな岩が、「石ウシュキ」と呼ばれ、白い史跡標柱が県道の海岸側に立っている。神の子バス停の手前となる。

喜界島のその他の風景・史跡  喜界町 ( 鹿児島県 )

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喜界島のその他の風景・史跡  喜界町

喜界島のその他の風景・史跡。写真順に、小野津集落を望む、ムチャ加那公園、トンビ崎海岸、トンビ崎灯台、平家上陸の地、サトウキビの一本道、厳島神社、厳島神社下の水場、城久から喜界港を望む、城久遺跡群、七十七曲りの登り口、早町港早朝フェリーきかいで奄美大島へ。
喜界島観光MAPは、喜界島観光物産協会HPから。 

戦闘指揮所跡  喜界町大字中里 ( 鹿児島県 )

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戦闘指揮所跡  喜界町大字中里

喜界島総合情報サイト「喜界島ナビ.com」による説明は、次のとおり。喜界町の中心街、県道619号から喜界空港まで行く。案内板がなく場所がわかりにくいが、空港正面前の曲がりくねった町道を南へ少し進むと、戦闘指揮所跡コンクリート建物の屋根が見えるので、砂利道の入口から奥へ入る。

戦闘指揮所跡
太平洋戦争後期、現在の空港周辺は沖縄の敵艦隊へと向かう特攻機が整備・給油を行うための中継飛行場となっていました。
この「戦闘指揮所跡」は軍事的な判断、指揮命令が行われていた場所で、特攻隊員も出撃前はこの場所で作戦指示を受けていたと言われています。 いつ建設されたかという事は当時、高度機密であったため不明ですが、現存する戦闘指揮所の建物としては国内ではここに残っているだけなのだそうです。

掩体壕(えんたいごう)  喜界町大字中里 ( 鹿児島県 )

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掩体壕(えんたいごう)  喜界町大字中里

現地説明板は、次のとおり。喜界町の中心街、県道619号の喜界徳洲会病院の西2つ目の交差点から喜界町体育館の方へ入る。大島地区消防組合喜界消防分署の裏手まで行くと、この掩体壕が残る。

<掩体壕> (えんたいごう) 掩体壕とは、戦闘機を敵の攻撃から守るための格納庫である。
太平洋戦争末期、現在の喜界飛行場は沖縄方面の敵艦隊へと向かう襲撃機・特攻機が整備・給油を行うための中継飛行場となっていた。当時、戦闘機を米軍の爆撃から守るため、島内の50数箇所に掩体壕が建設されたが有蓋コンクリート製はこの一箇所だけで 残りは三方土盛をして木の枝などでカモフラージュしただけの簡易なものであった。このコンクリート製の「掩体壕」は主に戦闘機の整備場として使用されていた。

俊寛の墓  喜界町大字湾 ( 鹿児島県 )

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俊寛の墓  喜界町大字湾

喜界町HPの観光情報による説明は、次のとおり。喜界町の中心街、県道619号の喜界徳洲会病院の西2つ目の交差点から、喜界町体育館の方へ入ると、大島地区消防組合喜界消防分署手前に、「俊寛の墓」と座像がある。

俊寛の墓
平家転覆の陰謀が暴露し、喜界島に流罪された俊寛僧都は、赦免されることなく、この地に亡した。坊主前(ボウズンメイ)と呼ぶこの地に墓があり、島の人々や観光客の供える花や線香はたえない。