九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

甘夏みかん原木  芦北町田浦町 ( 熊本県 )

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甘夏みかん原木  芦北町田浦町  

現地説明板は、次のとおり。芦北町田浦基幹支所玄関脇にある。

甘夏みかん原木
この樹は、昭和26年3月、鶴田源志氏他3名の農家が大分県津久見市から、カラスのつつく甘い夏みかんの穂木を貰って持ち帰り苗木に育て、日本で始めて田浦町に植付けられた「甘夏みかん」原木のうちの1本である。
これらの樹から採穂され、育てられた子孫の苗木は、熊本県内から九州全域に広まり、更に、本州、四国へと渡って植付けられ、町内だけでも約500ヘクタールの果樹園に推計40万本が植栽され、「日本一の甘夏みかん産地」として名声を博するまでに成長している。
甘夏みかんが導入されて以来35年間、町の発展に貢献した功績を讃え、町のシンボル樹として、鶴田庶氏の好意により最初の植栽地から此処に移植したものである。
昭和61年6月   田浦町長 市川 信明

滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳)  芦北町海浦 ( 熊本県 )

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滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳)  芦北町海浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道3号旧道の佐敷隧道へ戻り、隧道を抜けて芦北町小田浦へ下る。山腹を回り込んだ途中の滝の上橋から芦北広域農道の下をくぐり、「滝ノ上地区ふれあいセンター」まで行く。
この前に「薩摩往還石畳」の説明板がある。「滝ノ上の石畳」はすぐ近くかと思ったが、遠かった。薩摩街道の小沢沿い急坂を30分は登る。史跡説明板があったのは、佐敷峠から下り道を確認した農道の、もうすぐ下の植林地内だったのでガックリきた。

滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳) たきのうえ
(葦北)芦北町 <薩摩街道> 石畳道 長約20m,幅1.8m 江戸期 町史跡 WEB 放置保存(再発見) 薩摩街道の難所の一つ 2 –

佐敷太郎峠の切通し  芦北町白岩 ( 熊本県 )

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佐敷太郎峠の切通し  芦北町白岩

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道27号の肥薩おれんじ鉄道佐敷高架橋を下ったすぐ先から船津橋へ左折。橋を渡ると三叉路となっており、右が薩摩街道で、奥へ進むと前田に佐敷峠へ登る街道の入口案内板がある。中央が国道3号旧道で佐敷隧道へ続く。

佐敷太郎峠の切通し さしきたろう
(葦北)芦北町 <薩摩街道> 切通し 長10数m(2ヶ所) 江戸期 町教委 放置保存 薩摩街道の難所の一つ 2 C

佐敷峠へ登る街道の山道は、途中、採石現場となり鉄柵があって、ウォークイベント以外、普段は通行できないから、国道3号旧道を利用し佐敷隧道まで行く。隧道入口右側の車道をなお進むと、広いミカン畑となり、手前に薩摩街道ウォークコースの標識があった。
ミカン畑の端を登りつめると、この高所が薩摩街道佐敷峠と言われるところであろう。農道が反対側から上がり、抉られた農道のカーブ地点となっている。遺産サイトの切通しがどこなのかわからないが、ほかに切通し状のところは見当たらず、ここが当時の佐敷太郎峠の切通しだろうと判断した。間違いがあれば、後から修正したい。
農道をまっすぐ進むと、やがて農道の分岐点に御駕据所跡の標識があり、江戸への道は、滝の上の谷間へ下っていた。

(2015年9月10日 追 記)
芦北町教育委員会の生涯学習課文化振興係回答によると、佐敷太郎峠の切通しは、尾根筋に登り上がる際に頂上部の岩盤の一部を削って通路を削り出した簡易なものである。場所は標識とカーブミラーのあるところの背後の尾根をもう少し登る。これが薩摩街道佐敷峠の正しい道である。
撮影写真の提供を受けたので、最後に2枚を追加する。

佐敷峠を貫く佐敷隧道(国道3号旧道)  芦北町白岩 ( 熊本県 )

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佐敷峠を貫く佐敷隧道(国道3号旧道)  芦北町白岩

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。県道27号肥薩おれんじ鉄道佐敷高架橋を下ったすぐ先から船津橋へ左折、橋を渡った三叉路中央が国道3号旧道であり、佐敷隧道へ向かう。

佐敷太郎峠

佐敷太郎峠(さしきたろうとうげ)は、熊本県葦北郡芦北町大字海浦と熊本県葦北郡芦北町大字花岡を結ぶ国道3号の峠である。津奈木太郎峠と赤松太郎峠とともに三太郎峠と呼ばれている。薩摩街道時代からの難所の一つであった
沿革
1900年代前半 – 佐敷隧道完成
1965年(昭和40年) – 佐敷トンネル完成
2009年(平成21年) – 南九州西回り自動車道田浦IC – 芦北IC間開通に伴い新佐敷トンネル供用開始。
交通
国道3号 : 海浦駅付近から佐敷側の山裾までを旧道をショートカットするように佐敷トンネルが通っている。
国道3号旧道 : 山頂部を佐敷隧道で越える。
肥薩おれんじ鉄道線 : 海浦駅 – 佐敷駅間の単線トンネル。
南九州西回り自動車道 : 田浦IC – 芦北IC間を新佐敷トンネルで佐敷太郎峠を越える。

船津の井戸  芦北町道川内 ( 熊本県 )

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船津の井戸  芦北町道川内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道27号の肥薩おれんじ鉄道佐敷高架橋を下ったすぐ先から船津橋へ左折。佐敷小学校正門前まで行く。北側へ入る路地奥に船津の井戸がある。

船津の井戸 ふなつ
(葦北)芦北町 石井戸 江戸期 町教委 井戸端も切石敷 2 C

船津岸壁石段  天草市牛深町船津 ( 熊本県 )

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船津岸壁石段  天草市牛深町船津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。天草市牛深支所西の牛深町交差点から海岸通りに船津へ向かう。画像1〜3は天草市牛深支所総務振興課の提供。

船津岸壁石段 ふなつ
天草市 牛深港 係留施設 (雑割石積) 寛政11(1799) 歴史的港湾施設資料集 泊地:ほぼ竣工当時の規模が残り、保存状態も概ね良好 当時、港へ寄港する旅船等の監督のため、御用船の船着き場となっていた 2 B

ブログ”連載:牛深御番所てんこ盛り!”商船入湊・石垣湊之図 ⑧『牛深御番所絵図 其の八』を参照。
http://gobansyo.kataranna.com/e74198.html

(2015年9月6日 追 記)

天草市牛深港を2015年9月2日再び訪ねる。4枚目以降は、私の撮影画像。船津岸壁石段は、牛深海中公園遊覧・グラスボートの発着場の桟橋から睦橋に向かい海岸通りの遊歩道を歩くと、対岸側に全体を望める。
睦橋からAコープ奥まで辺りに、当時の古い海岸石段を数基確認できるが、Aコープ奥の広い石段は、だいぶん改修の跡があり、コンクリートの劣化石段だった。

御用井戸1・2  天草市牛深町船津 ( 熊本県 )

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御用井戸1・2  天草市牛深町船津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。天草市牛深支所西の牛深町交差点から海岸通りに船津に向かい、加世浦バス停から手前の真浦公民館の方へ入る。この路地のだいぶん奥の左右の民家に御用井戸が残るが、付近に案内図や案内標識はなくどの家か場所がわかりにくいので、近所で良く聞くこと。天草市に対応をお願いしたい。
「御用井戸1」文化元年(1804)のが、写真1〜4、「御用井戸2」文化9年(1812)のが、写真5〜9。写真10は、大正11年だった。

御用井戸1 ごよう
天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸 文化元(1804) 市史跡 歴史的港湾施設資料集/現地解説板 近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 寛政10(1798)に沿岸監視体制強化のために設置された長崎奉行直轄の番所の専用井戸として掘られたもの/一般住民の使用は禁止されていた 2 C

御用井戸2 ごよう
天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸 文化9(1812) 市史跡 現地解説板 蓋が被せてある/近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 同上/井戸枠に「御/番/所/用/水」と刻字 2 C

現地説明板は次のとおり。

天草市指定文化財  御用井戸
指定年月日 昭和50年6月10日
天草初代代官鈴木重成のときに、富岡、大江、魚貫崎に遠見番所がおかれましたが、その後、寛政10年(1798)、沿岸監視体制強化のため、長崎奉行直轄の牛深湊見張番所が新設されました。湊番所には普請役部屋や水夫部屋があり、この御用井戸は文化元年(1804)に湊番所専用に掘られたもので、一般の人々は使用を禁止されました。井戸は当時数基掘られており、近くには文化9年(1812)のものも残されています。どちらも内部の石組みは当時のままで、水不足の際にも枯れることはなかったといわれています。
平成22年3月 天草市教育委員会

天草市指定文化財  御用井戸
指定年月日 昭和50年6月10日
天草初代代官鈴木重成のときに、富岡、大江、魚貫崎に遠見番所がおかれましたが、その後、寛政10年(1798)に、沿岸監視体制強化のため、長崎奉行直轄の牛深湊見張番所が新設されました。湊番所は御用船を備え、普請役部屋や水夫部屋がありました。この御用井戸は文化9年(1812)に湊番所専用に掘られたものです。一般の人々は使用を禁止されており、石組みの井戸枠には「御番所用水」と刻まれています。当時、井戸は当時数基掘られたらしく、付近には文化元年(1804)のものも残されています。
平成22年3月 天草市教育委員会

三角西港  宇城市三角町西港 ( 熊本県 )

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三角西港  宇城市三角町西港

宇城市HPの国指定文化財による説明は、次のとおり。JR三角駅から天草五橋入口の方へ向かい、そのまま国道57号を進むと、三角西港公園がある。

三角西港  当時の姿をそのまま残したロマン漂う観光スポット

三角西港は、明治20年に明治政府の国内統一殖産振興の政策に基づいて、オランダ人水理工師のローウェンホルスト・ムルドルの設計で建設されました。当時の最新の技術が盛り込まれ、近代国家の威信を懸けた明治三大築港の一つです。良港を持たない熊本県にとって築港は県民の悲願というべきもので、三角港にかけた期待と完成の喜びは数々の逸話として伝えられています。

三角町は有明海、不知火海の二つの海に面し、熊本県の海の玄関港として、物資や人が行き交う海上交通の要地として繁栄。それとともに宇土郡役所(現在の宇城市立九州海技学院)や三角裁判所(現在の法の館)が設置され、宇土地域の行政や司法の中心地でした。

756メートルにもおよぶ石積みの埠頭や水路、建造物などは築港後1世紀の歴史を持ちながら今なお厳然としてたたずまいを見せています。このように当時の都市計画がほとんど無傷のままで残っているのは全国的にも珍しく、文化財的にも国際的にも価値ある生きた港として、平成14年12月、国重要文化財に指定され、港町三角のシンボルとなっています。

また、昭和62年の築港100周年を期に港湾整備事業の指定を受け、当時の建造物の復元や一帯の公園整備に取り組み、観光港として再興しています。小説家・小泉八雲ゆかりの旅館・浦島屋、カフェなど明治の面影を残す建物が残ります。

猪 伏 橋  宇土市網引町猪伏 ( 熊本県 )

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猪 伏 橋  宇土市網引町猪伏

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。JR三角線住吉駅から県道58号に入り、網津川沿いに行く。網引町の県道から左手にタカフネ橋が見えるので、この分岐からタカフネ橋を渡る。300mほど先の右手上流側に架かっているので、民家手前の里道に入る。

№1,076 猪伏橋
宇土市網引町猪伏
網津川
橋長:6.9m  橋幅:2.75m  径間:6.45m  拱矢:3.2m  環厚:45cm
タカフネ橋を渡り300m先右手に架かっています。

タカフネ橋  宇土市網引町 ( 熊本県 )

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タカフネ橋  宇土市網引町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。JR三角線住吉駅から県道58号に入り、網津川沿いに行く。網引橋を渡って県道を進んで行くと、県道から左手に見える。

№1,075 タカフネ橋
宇土市網引町
市指定文化財
網津川
橋幅:2.4m  径間:5.5m  拱矢:1.8m  環厚:40cm
馬立橋より県道58号線を900m南進、左手に架かっています。
赤みがかった馬門石です。