九州(宮 崎 県)」カテゴリーアーカイブ

高城町穂満坊の石敢當  都城市高城町穂満坊 ( 宮崎県 )

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高城町穂満坊の石敢當  都城市高城町穂満坊

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道10号により高城町穂満坊交差点の少し先まで行く。穂満坊バス停先から左折、政所病院へは曲がらずまっすぐ進むと、左側の榎園家入口にこの石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」134頁による記録は、次のとおり。当時の写真は134頁(写真119)にある。

穂満坊(馬場地区)3189 榎木家(「榎園家」が正)裏カーブ突き当たり生垣側路傍に、高さ50cm、幅44cm、厚さ20cmの丸みのある自然石に「石散堂」と刻した碣が立っている(写真119)。脇に御幣、供えものがされている。

山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から国道269号により山之口町麓交差点まで行く。ここから左折し県道422号に入ると、永野橋の手前右側にこの石敢當が見える。
永野橋を渡った先には、史跡「島津寒天工場跡」の入口案内板があった。

山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當) やまのくち、やまのくち
都城市 (永野) 石敢當(凝灰岩) 高45㎝,幅23㎝,厚15㎝ 享和元(1801) 日本の石敢當p135/市教委(山之口町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」135頁による記録は、次のとおり。当時の写真は135頁(写真120)にある。

永野1565 永野家前の三叉路の突き当たり内庭前路傍に「石敢當」と陰刻した、高さ45cm、幅23cm、厚さ15cmの頭がやや丸味をおびた凝灰岩の碑が立っている(写真120)。碑の正面の右左に「享和元年」「九月吉日」と刻されている。享和元年は1801年、いかにも永年の風雨に耐えた古色蒼然たる石敢當である。この石敢當は反対側の道路脇にあったが、道路整備で現在地へ移設したという。供花供水をしている。県内では4番目に古い。

山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口

都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。国道の左右側に麓武家屋敷道が残る。石敢當については、前記事で2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」の記録から、造立が古いと思われるものを2基載せた。
これはその他、麓地区で見かけた石敢當。場所説明は省くが、説明板はあるものの現物が所在しなかったり、新しい石柱の石敢當である。宮崎では、あまり大事にされていなく、「日本の石敢當」のデータはほとんど役に立たないと聞いている。

山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方と反対の国道対面側へ右折し、奥の小川が流れるごぜ道遊歩道のところまで行くと、この角の電柱根元に説明板と石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真126)にある。

麓3119 原口家前三叉路突き当たりに、上部が欠けた高さ45cm、幅15cm、厚さ10cmの凝灰岩に「敢當」と彫られた碑が立っている(写真126)。上部が欠けているので、「石敢當」であったかもしれない。これは別の場所から移設されたものという。古いものらしいが造立年銘がない。

山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方へ左折し奥まで行くと、右側の方の突き当たりに、石敢當の説明板と石垣に組み込まれた石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真125)にある。

麓2995 橋口家空屋敷の石垣に嵌め込まれた、高さ53cm、幅33cmの凝灰岩に「石敢當」と彫られたやや長方形の碑がある(写真125)。古いものらしいが造立年銘がない。

長田の石敢當2  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當2  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。県道沿いの三股町梶山小学校先から左折。坂の突き当たりカーブミラーと電柱の間に、コンクリート台上のこの石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真128)にある。

大字長田梶山上馬場2914 小牧家前T字路突き当たりのコンクリート台上に「石敢當」と刻された、高さ53
cm、幅33cm、厚さ16cmの丸い形の自然石の碣が立っている(写真128)。造立年銘はない。

長田の石敢當  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。三股町梶山小学校のすぐ先の県道沿い右側に鈴木家の屋敷がある。
長田の石敢當は、鈴木家敷地の西角に立っていたのを、県道拡幅工事があり、同家内の庭に移設し横倒しに置いてあるので、家人に断って見学する。

長田の石敢當 ながた
(北諸県)三股町 (梶山下馬場) 石敢當(砂岩) 高84㎝ 江戸初期?? 日本の石敢當p138 不詳 本当に「江戸初期」なら、国内で2番目に古い石敢當のなる可能性あり B

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137〜139頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真129)にある。

大字長田梶山山下馬場2884 鈴木家の畑中に、高さ84cm、幅31cm、厚さ24〜27cmの砂岩の自然石上部に梵字、下に「石敢當」と刻されたものが立っている(写真129)。
『みまたの石造文化』(平成5年3月発行・三股郷土史研究会)には次のような解説がある。
[石塔の種類−石敢當(庚申塔婆)]この石敢当は、鈴木さん宅地の畑の中にあるが、この位置は梶山城大手口に通ずる三叉路の位置にあたる。種子ボロンは、諸仏一切結合の種子である。石敢当は他町村などにも多くあるが、ボロンの種子を刻出したものは他に発見されていない。貴重な庶民の文化遺産である。この石敢当は庚申信仰の衆中によって造立されたものである。都城盆地内唯一のものである。造立年は不明なるも江戸後期と推定。…(以下、省略)

乙房町の石敢當  都城市乙房町 ( 宮崎県 )

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乙房町の石敢當  都城市乙房町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR西都城駅前交差点から県道31号により北西へ進む。庄内川に出る手前、庄内橋南交差点から県道108号へ右折。この付近が乙房町である。
乙房平田地区2948という番地は、2つ目角先の右側。蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」にあると記している。写真のとおり写真スタジオができたが、現在は廃業し空き店舗。県道に面した路傍に「石敢當」は見当たらない。
裏が蔵満家の屋敷のようだが、ここも空き家。庭を覗いても「石敢當」は見当たらない。近所で聞き込みをしたが、子は都城市街に住んでいるらしく、これ以上の手がかりはなかった。
坂を下って消防分団倉庫前(近くに町区自治公民館がある)石垣角に立っていたのは、「水神」だった。

乙房町の石敢當 おとぼう
都城市 石敢當(凝灰岩) 高22㎝,幅35㎝,厚8㎝ 弘化2(1845) 日本の石敢當p124/市教委(都城市史) –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」124〜125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

たとえば、乙房平田地区2948 蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」と刻した高さ22cm、幅35cm、厚さ8cmの頭丸味の凝灰岩の端整な碣がある。弘化2年(1845)造立というが、造立年銘はない。

祝吉町の石敢當  都城市祝吉町 ( 宮崎県 )

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祝吉町の石敢當  都城市祝吉町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR都城駅前交差点から国道
269号により北東に進む。都城農業高校前を過ぎると、次に祝吉五差路交差点がある。
祝吉町地区6521という地番はもうない。6500番が「美容室 ビューティーサロン クラヤ」である。この付近で、国道の対面側も含め長友家と石敢當の聞き込みをしたが、手がかりがなかった。

祝吉町の石敢當 いわよし
都城市 石敢當(自然石、凝灰岩) 高33㎝,幅20㎝,厚8㎝ 安政3(1856) 日本の石敢當p125 不詳 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

祝吉町地区6521 長友家隣屋敷畑T字路突き当たりブロック囲中に(昭和61年区画整理以前は、細い曲り道で三叉路突き当たりの路傍にあった)「石敢當」と刻字した、高さ33cm、幅20cm、厚さ8cmの凝灰岩の自然石がある。安政3年(1856)の造立というが、造立年銘はない。

姫城町の石敢當  都城市姫城町 ( 宮崎県 )

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姫城町の石敢當  都城市姫城町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。姫城町17街区姫城自治公民館は、都城市庁舎南別館左の狭い車道に入ると、途中に姫城公民館入口への案内標識がある。姫城山児童公園の下が公民館である。
現地を訪ねて公民館付近を探したが、写真の高さ106cmという石敢當は見当たらない。移設したのか、都城市教育委員会文化財課に現地からすぐ電話して依頼したが、まだ返答がない。

姫城町の石敢當 ひめぎ
都城市 姫城公民館・前 石敢當 高106㎝,幅19㎝,厚16㎝ 安政5(1858) 日本の石敢當p.125/市教委(平成6 古石塔類調査票) 移設 (正面)「石三石敢當」/安政5かどうか不確定 2 C

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は126頁から。

石三 石敢當  □年三月 (二面に石敢當の刻字)
姫城町17街区姫城自治公民館 (安政年間造立という。碑面に「□午」とあり、安政五年が「戌午」にあたる)
106cm×19cm×16cm