投稿者「misakimichi」のアーカイブ

サバウツガー(鯖沖井)   宮古島市伊良部字前里添 ( 沖縄県 )

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サバウツガー(鯖沖井)  宮古島市伊良部字前里添

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。県道90号などにより伊良部島の東、佐良浜交差点まで行くと、少し北の海岸側へ進む「サバウツガー」の案内標識があり、展望台から下の石段を下る。 

サバウツガー(鯖沖井)
宮古島市(伊良部島) 石積井(海岸崖下の湧水) 径1.5m,深4.5m 1720年 市史跡 現地解説板/WEB 昭和41まで生活用水として使用/新規に階段が整備されアクセスが容易 宮古島に多い海岸崖下タイプ/池間島からの強制移住させられた佐良浜の人々の生活用水として240年にわたり使われてきた井戸→丘陵上から崖下の海岸まで124段の簡易な石段で降りる大変な労働だった/円形に丁寧に積まれた石 2 B   宮古島市HPの宮古島市の文化財 > 史跡1〜25による説明は、次のとおり。

市指定史跡 サバウツガー  指定年月日: 昭和50(1975)年8月1日
直径1.5m、深さ4.5mの石積みの井戸とその周辺地域、それに、井戸までの階段も含めて指定されています。 昭和41年8月の簡易水道が敷設されるまで、240年以上の佐良浜の人達の生活用水として活用されてきた井戸です。
名前の由来は、池間島から見た地形が鮫(サメ)の口に似ていることからサバウツと名付けられたものと考えられます。サバウツガーまでの石段は124段あったと言われています。
井戸を発見したのは、「ミャーギ立の金大主」と「フッズゥーの松大主」の二人で、サバウツバンタ(バナタ)での野良仕事の合間に、水の音を聞き、発見したと言われていますが、潮により、塩辛さがことなり、飲料水としては適していません。
鍛冶技術や石工技術を知る上からも貴重な史跡です。

アラガー  宮古島市伊良部字佐和田 ( 沖縄県 )

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アラガー  宮古島市伊良部字佐和田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。県道204号により伊良部島の北西となる字佐和田まで行く。集落内に入りスーパーみなみの近くに「アラガ—」があるが、荒れて場所がわかりにくいから、所在図を参照。 

アラガー
宮古島市(伊良部島) 石積井(円形) 径1.8m,深4-4.5m 近世以前?→近世(大親時代)の改修 市史跡 現地解説板/WEB 周囲が高い柵で覆われ、内部は放置状態なので、視認不可能 鳩が雑木林に出入りしていることから発見されたという伝承にちなんで、「鳩見付きカー」とも呼ばれる 4 C

宮古島市HPの宮古島市の文化財 > 史跡1〜25による説明は、次のとおり。

市指定史跡 アラガー  指定年月日: 昭和55(1980)年6月26日
字佐和田の西側にあり、佐和田ではもっとも古い井戸です。
縦8m、横6m程の敷地に直径1.8m、深さ4〜4.5mの井戸です。
昔、この辺一帯は広範囲にわたって雑木林が発達しており、入江側は塩田が発達していたようです。
起源は、鳩が雑木林にしきりに出入りしているので、この井戸を見つけたと言われ、一名「鳩の見つけ井戸」とも言われています。
この井戸が発見された事によって、元世乞(ムトゥユークイ)周辺にあった集落が現在地の家後原に定着していたと考えられます。
構造は、湧き水の縁を石で囲った簡単なものですが、大親時代に大きく改修され現在の佐和田の集落形成の元になった重要な井戸です。

牧山展望台  宮古島市伊良部字池間添 ( 沖縄県 )

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牧山展望台  宮古島市伊良部字池間添

沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語による説明は、次のとおり。

牧山展望台  まきやまてんぼうだい
宮古、来間、池間島が一望できる、島で一番高い場所にある展望台。

伊良部島(いらぶじま)で最も高い場所にあるのが、町のシンボル「サシバ」を幾何学的に形どった牧山展望台です。ここからは東側に宮古本島、来間島(くりまじま)、池間島が見渡せ、美しい海や真っ青な空が一面に広がっています。また展望台のふもとには遊歩道があり、亜熱帯原生林が生い茂る自然の中を散策したり、林森林浴を楽しむこともできます。
沖縄県宮古島市伊良部字池間添
アクセス ■佐良浜港から車(一般道)で約10分

伊良部大橋  宮古島市 ( 沖縄県 )

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伊良部大橋  宮古島市

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。那覇空港から乗り継ぎで宮古島市へ一泊、翌朝、伊良部島へ渡るため県道252号の「伊良部大橋」を通った。

伊良部大橋
伊良部大橋(いらぶおおはし)は、沖縄県宮古島市の宮古島と伊良部島とを結ぶ橋。2006年3月18日に起工し、2015年1月31日16時に供用開始[2]。全長3,540mで、新北九州空港連絡橋(全長2,100m)を上回り、通行料金を徴収しない橋としては日本最長である[3][4][5]。総事業費は380億円[6]。

概要
宮古島の平良港トゥリバー地区と伊良部島東南部の長山の浜近辺を結ぶ橋で、沖縄県道252号平良下地島空港線の一部である[7][8]。
橋梁の構造は一般部がPC連続箱桁橋、主航路部が鋼床版箱桁橋とされ、本橋部分の全長は3,540mに及ぶ。また、取付道路は2,960mで、伊良部島側取付道路の一部は600mの海中道路とされる予定。本橋部分と取付道路を合計すると、全長は6,500mとなる。

橋梁の幅員は8.5mで[1]、幅3mの片側1車線道路の両側に幅1.25mの路肩が設けられる[9]。主航路部は船舶の通航のため、支間長180m[9]、クリアランス27m[7]とされる。
伊良部大橋の開通により、観光の促進や流通コストの削減が見込まれる[2]。また、宮古島の地下ダムから農業用水や生活用水が大橋に併設された導水管を通って供給されるため、水道のコストも削減される[2]。

蔡温松並木  国頭町辺戸 ( 沖縄県 )

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蔡温松並木  国頭町辺戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号により沖縄本島の北端、辺戸岬の分岐まで行く。国道は辺戸御嶽の麓を回り込むように続くので、そのまま進むと辺戸集落入口のバス停手前に駐車場があり、「蔡温松並木保全公園」内の山手散策路を一周すると、バス停へ出る。 

蔡温松並木 さいおん
(国頭)国頭村 辺戸蔡温松並木保全公園 松並木 約30m 琉球王国時代(1761年までの18世紀) WEB ほとんど枯死 蔡温(三司官=宰相、風水思想)が薩摩侵攻で疲弊した琉球経済の復興に尽力した頃に植えた松並木 4 B

沖縄県環境部環境再生課HP「おきなわ 緑と花のひろば」沖縄の名木百選による説明は、次のとおり。

■辺戸の蔡温松
蔡温(1682〜1761)は、三司官(今でいう大臣で3人制)を25年も勤め、薩摩侵攻により疲弊した琉球において農業技術の改良や、植林を奨励して改革を押し進め、農林漁業に多くの業績を残した人物である。
現在、辺戸地区で蔡温松と呼ばれている松群落は、その頃に植栽されたと思われ、樹齢300年という説や、現存するものは2世から3世で樹齢150年という説もある。
当群落は、樹高19mのものを筆頭に15本、辺戸集落の東から北側に位置する道路沿いに生育し、地域のシンボルとして村民から愛さ れ、健全に保護されている。周囲には散策路や展望台も整備されている。

認定番号  053
認定年度  平成17年度
樹   種  リュウキュウマツ
樹   高  19m
幹   周  4m
推定樹齢  150〜300年
所在地    国頭村字辺戸
経度・緯度  26.8557230_128.262226
所有者    国頭村

大石林山・御願ガジュマル  国頭村宜名真 ( 沖縄県 )

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大石林山・御願ガジュマル  国頭村宜名真

沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語による説明は、次のとおり。那覇市から車(高速道路と国道58号利用)で約120分。沖縄本島の北端、辺戸岬近くまで行く。
私は主に大ガジュマル見学のためだったので、他のコースはほとんど回っていない。

営業時間 4月〜9月 9:00〜17:00(受付)18:00(閉園) 10月〜3月 9:00〜16:00(受付)17:30(閉園)
休業日  年中無休
入山料金 個人 大人(高校生以上)820円(税込)・小人(4才〜中学生)520円(税込)

大石林山  だいせきりんざん
本島最北端の辺戸(へど)岬の近くにある日本唯一の熱帯カルスト。約2億年前(古生代)の石灰岩が、雨水などで長い年月をかけ侵食されてできたものです。カルスト台地に石灰岩が塔のように露出している「ピナクル」が最大で約10メートルもあり、巨岩巨石が林立する迫力のある景観を見ることができます。また、年輪を重ねた巨大なガジュマルや、6万本以上のソテツが自生しています。

比地の小玉森の植物群落  国頭村比地 ( 沖縄県 )

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比地の小玉森の植物群落  国頭村比地

琉球大学博物館・風樹館-データベース-による説明は、次のとおり。国道58号国頭町奥間交差点から左折、比地集落の入口まで行く。三叉路の公園のところに神アシャギの案内標識と説明板がある。

比地の小玉森の植物群落
沖縄県指定天然記念物
指定年月日: 1991/04/02
所在地: 沖縄島:国頭村字比地49

概 要: 沖縄島北部の比地集落の東側に位置する(標高約40m)森で、ウンジャミ祭などの重要な年中行事が行われる拝所となっている。ここには、胸高直径が160cmもあるアカギの大木をはじめ、フクギやホルト、タブノキ、クスノハカエデのどの高木と、リュウキュウガキ、ヤブニッケイ、シロダモなどの中高木、クロツグやナガミボチョウジ、シロダモなどの低木類、そして林床にはオオイワヒトデやホシダ、チジミグサなどが見られる階層構造が発達している。小玉森は古くから村民が聖域として保護してきた森で、人々のくらしと関連した里山林として貴重なものである。

ひち原の印部石「ゐ」  国頭村比地 ( 沖縄県 )

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ひち原の印部石「ゐ」  国頭村比地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号国頭村奥間交差点から右折、比地集落の入口まで行くと、三叉路正面にこの印部石がある。

ひち原の印部石「ゐ」 しるび
(国頭)国頭村 比地 印部石 高40㎝,幅26㎝ 1737-50年 沖縄の印部石p.10 上部欠損/石の周囲が人工的に囲われている 乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「ゐ、ひち原」と刻まれている/「ゐ」はいろは順 4 C

ヒージャーガ—  沖縄市美里3丁目 ( 沖縄県 )

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ヒージャーガ—  沖縄市美里3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道329号沖縄市美里(南)交差点近くから美里公民館前の通りに入り、少し先から左手の坂道を下ると、「ヒージャーガ—」がある。近くに小さな「シチャヌウカー」もあったので写してきた。

ヒージャーガ—
現在、登載準備中。

沖縄市教育委員会「美里地区文化財マップ」による説明は、次のとおり。

18 ヒージャーガ—
ヒージャーガ—とは、湧水を樋でひいて利用する形態の井戸のことです。明治28(1895)年生まれの地元の古老が物心ついた時にはあったといわれています。ヒージャーガ—は、子どもが誕生したときに産湯に使う水を汲むためのウブガ—(産井)として利用されました。また、ウマチー行事の際にも集落の有志が拝んでいました。
昭和初期までは住民の飲料水として用いられており、洗濯場としても毎日賑わっていました。下流では水田の稲苗床の水として利用されました。   (沖縄市指定文化財 1994年9月22日指定)

さく原の印部石「さ」  沖縄市美里3丁目 ( 沖縄県 )

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さく原の印部石「さ」  沖縄市美里3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。沖縄市美里北交差点手前から美里3丁目に入ると、メゾンティーダ裏通りの坂道ブロック塀のところにある。7街区との境。

さく原の印部石「さ」 しるび
沖縄市 美里 印部石(細粒砂岩) 高56.5㎝, 幅29㎝ 1737-50年 沖縄の印部石p.106 移設(2面をブロック塀で囲まれ、台座はコンクリート) 乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「さ、さく原」と刻まれている/「さ」はいろは順 4 C

沖縄市HPの文化財紹介 > 美里地区による説明は、次のとおり。

印部石
美里公民館の北側に位置する。この石は、村の原名の境界を示す。かつては多くの基準点となる石があったようだが、現在の美里に残っているのはこの印部石だけである。