投稿者「misakimichi」のアーカイブ

新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

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新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

新小が倉1丁目にある。ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境で、長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、白崎とともに藩境石が建った。詳しくは別項「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」を参照のこと。

石の位置は、断定はできないが当時の藩境が今の町界と変わらなかったら(住居表示実施で町界が変更しているが、この地点は変わらない)、少しは昔の街道筋から動いているだろうが、ほぼ間違いないと思われる。小が倉バイパスの工事前を知る小ヶ倉の年配の人はそう言う。昔の写真は中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」にある。

「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

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「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

「みさき道」は、二本松山中の道塚から下道へ下る。弁慶橋のガード下をくぐり、小が倉バイパスの「弁慶岩」バス停に出、戸町の谷へ下ると「戸町カルルス」の跡あたりを行く。

「温泉はチェコスロバキアのカルルスバート(カルロビ・バリ)の鉱泉を結晶させた薬品、カルルス水を沸かしたことからカルルス温泉と呼ばれた。戸町カルルスは、玉蝉園とも称した。明治34年頃、戸町の藤田東三郎・東人親子が開設、敷地は約1,000坪で、4・5月は藤や菖蒲、9、10月は萩や楓で賑わったという。園内には温泉場があり、中川カルルスに対して戸町カルルスと呼ばれた。」(市立博物館刊「長崎の史跡」南部編から。古写真は長崎大学附属図書館所蔵分)

この上手の竹林に由緒ある井戸が残る。水はパイプで戸町海岸の製氷工場へ送られていたらしい。やがて戸町の一方通行交差点と出合い、戸町中学校の方へ向けてバス道を行く。少し手前から左へ石段を上がると墓地があり、中学校前へ達する。

戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

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戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

惣兵衛は長崎甚左衛門の弟で、はじめ、戸町氏の養子となったが、後に、甚左衛門の跡を継ぎ、長崎惣兵衛重方と称した。大村藩の重臣で、朝鮮の役にも出陣し、さらに、玖島城の築城の際は、築城奉行を勤めた。寛永十四年(1637)に没したが、大村市今富の墓は大村市の史跡に指定されている。一方、長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある。以前は一六基ほどの墓石が並んでいたが、現在では一か所にまとめられている。この長崎家の始祖は三郎兵衛と称し、長与村の給人(二十石)を勤めたが、この三郎兵衛の夫人が惣兵衛の娘であった。長崎家は以後、弥大夫・重右衛門‥と続き、七代目の平左衛門の時から大浦番所の添番となり、この地に居住した。城野氏の宅地がその屋敷跡である。(昭和61年「三和町郷土誌」172頁コラム)

これは、長崎市上戸町二本松山中にある「みさき道」の道塚の関係から掲げた。文中の「長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある」との説明は、他にもそのコースを述べていた資料が多いが、手前の二本松山中の分岐に道塚がせっかく建っている理由の誤認ではないだろうか。私見の考察は次のとおりであった。

9 二本松山中の道塚は下道を指すか。すると真直ぐに行く道はなにか
二本松山中(上戸町)の道塚は、林の中の右下に分かれる下道の少し下がった地点にあり、下道を指すことは間違いない。戸町中学校やダイヤランドが戸町の谷を挟んですぐ直線的に近くに見え、歩く人の心理としてそう向かうだろうし、逆に下から登って来てもそんなにきつくはない。大浦妙行寺の墓の坂道の方が急である。そのためわざわざ道塚が建ったと思われる。
真直ぐな道は本道のようであるが、現上戸町病院の裏手を行き先の長崎甚左衛門ゆかりの者の墓に出る。これは遠回りである。この道は墓参道ないし今の小ヶ倉水源池の底の谷間を行き戸町岳近くを越して宮摺方面へ行く道ではなかったろうか。

最近、長崎歴史文化博物館に史料として作成年不明だが、江戸後期「大村管内 地方(じかた)」と、同じく明治初期「大浦郷・上郷・下郷・箕尾郷図」があることがわかった。これによると当時の街道と思われる道が太い赤線で描かれている(絵図は出雲町の項で掲載済)。道塚の指す道であり、長崎家の墓地の方へ回る道は描かれていなかった。
明治34年国土地理院旧版地図では、墓地への道が県道として表われているが、私たちが調べているのは、道塚などによる「江戸期のみさき道」である。

徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

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徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

上の古い写真を見ていただきたい。現存する「みさき道」の道塚No.⑦、徳道の車道三叉路に立つ里程道塚の昭和38年当時の姿である。「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」「文政七年申十一月 今魚町」(1824)と刻んだ有名な碑である。
この道塚のことは、私が平成17年8月、「三和町郷土誌」の編さんに当られた高崎市郎先生(川原宮崎に住む)を自宅にお訪ねして話を聞き、これはぜひ書きとめておきたいと研究レポート第1集において次のように報告していた。

6 野母崎徳道の大きな里程道塚⑦は、道路工事の受難に会っていた
後のレポートに引用しているが、新小が倉1丁目にある「従是南佐嘉領」の藩境石にまつわる峠の会の本「くにざかいの碑」に紹介されているブルドーザー掘り起こし記事とまったく同じような扱いを、徳道の道塚も受けていたのである。以下宿に下る野母崎町の町道改修工事の時と思われ、時期は先生もよく覚えていないが、無造作に工事現場に放置されていたそうである。先生が通りがかってすぐ野母崎町へ連絡し、貴重な道塚を大事にするよう意見され、今の位置に据え付けられた。明治地図を見ても以下宿に小径がまっすぐここから下りていて、位置はあまり違いはないようである。
こういうことはやはりあったのだろうか。ダイヤランド内の道塚を始め、前で記したここにもあったという道塚は、そんな運命を辿って壊され、土の中に埋まってしまったのかも知れない。西山台上の殿様道にあった大村領の藩境石も、立っていたと思われる畑所有者の三川町自宅の庭へ移されていた。道塚は位置をあまり動かさないでほしい。

偶然にも、この徳道道塚は受難前の姿の写真が残っていた。昨日(平成19年11月3日)「長崎学さるく」の準備のため、「みさき道」の草刈り整備をした。長崎史談会幹事でもある餅田勇さんが参加され、「こんな写真があるよ」と現地で見せてくれた。
長崎の歴史話をコンパクトに田栗杢作氏が編集していた長崎手帖社「長崎手帖 第三十一号」昭和38年4月発行の中の「碑をたずねて 24 里程碑」。上のとおりの写真と記事である。文は田栗杢作氏と思われる。カメラは井上桂二氏。

「長崎手帖」の碑の記事は、先に「長崎の古写真考」の項で紹介している。興善町の写真店「春光社」の現社長が、「長崎手帖」1〜40号まで全巻保存版を持っておられる。一度訪ね、私は見せてもらって故永島正一氏「居留地境石標」文など載せたが、この時に肝心な第31号を見落としていたようだ。

当時の写真を見て気づくのは、刻面の向きと背景。二の岳の山裾が後に写り、のどかな田んぼや畑が道塚のすぐ近くで広がっている。今ある道塚は、高崎先生が話されたとおり、いつの時期かわからないが野母崎町の町道改修工事のとき、位置と向きを少し変えられてこの三叉路に据え付け直されたのである。貴重な写真が見つかった。

最後は、写真集「三和町今昔2」から川原宮崎海岸と徳道の昔日を参考のため。海ガメが産卵にきていたし、徳道の山道4kmは当時の子どもの通学路であった。

関寛斎と佐々木東洋の人物像  ブログ「長崎のおもしろい歴史」から

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関寛斎と佐々木東洋の人物像  ブログ「長崎のおもしろい歴史」から

次は、岩田祐作氏ブログ「長崎のおもしろい歴史」の中、「長崎に遊学した人たち」医学伝習所の項にあった関寛斎と佐々木東洋の人物像である。長嶺圭朔は載ってなかった。
「佐々木東洋」は、佐倉順天堂の同じ門下生で、長崎医学伝習所に関寛斎と一緒に学び、御崎観音参りに同行した仲間である。

この記事にあるとおり、「佐々木東洋」は明治15年、東京神田駿河台に杏雲堂病院を最初に開院した。この病院は順天堂病院と並ぶ民間の代表病院である。本年で創立125周年となった。今も続き、建物玄関前に彼の胸像があるから、画像を紹介しておく。
東洋の胸像は、以前は由緒ある記念塔の前にあったが、病院改築のため台座を変えてこのようになったようである。

なお、夏目漱石の明治41年「処女作追懐談」中に、「今も駿河台に病院を持っている佐々木博士の養父だという佐々木東洋だ。あの人は誰もが知っている変人だが、世間はあの人を必要としている。しかも己を曲げることなくして立派にやっていく」と、漱石の羨望をこめた文がある。

関   寛 斎    (1830〜1913)

農業吉井佐兵衛の長男として上総国山辺郡中村(千葉県東金市)に生まれ、後に山辺郡前之内村(東金市)の儒者関俊輔の養子となった。1848(嘉永1)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰然の順天堂で蘭方を修めた。さらに江戸に出て林?海・三宅艮斎のもとで研鑚を積んだ。嘉永5年帰郷して医業を開き、1856(安政3)年には下総国海上郡銚子村(銚子市)に移って医業に従事した。この頃、同地の醤油醸造業者浜口儀兵衛の知遇を受け、1860(万延1)年31歳のとき長崎に遊学した。1年余の滞留中にオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学び、また開設草々の長崎養生所で臨床教育を受けた。1862(文久2)年帰郷したが、同年阿波国徳島藩主蜂須賀侯から藩医に迎えられて同国徳島城下(徳島市)に赴いた。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発すると、徳島藩兵とともに従軍し、東征大総督から奥羽出張病院頭取を命じられて活躍した。戦後は徳島に帰って藩医学校や治療所の開設に尽力したが、不慮の事故に遭って徳島を去った。その後は新政府の海軍省に出仕し、また山梨県立病院長を務めた。明治6年再び徳島に帰って医業を開いた。以後30年間、この地で診療に従事し、関大明神と崇められたという。明治35年73歳のとき北海道の開拓を決意し、十勝郡斗満原野(北海道足寄郡陸別町)に入植した。二宮尊徳やトルストイに私淑し、以後10年間、幾多の困難を乗り越えて1500ヘクタールの牧場開拓と、理想の村づくりに取り組み、84歳で没した。

佐 々 木 東 洋  (1839〜1918)

代々医を業とする佐々木震沢の長男として江戸に生まれた。1856(安政3)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰善・尚中の順天堂で蘭学を学んだ。さらに安政6年21歳のとき長崎に遊学し、オランダ軍医ポンぺについて西洋医学を修めた。1861(文久1)年江戸に帰り、チフス患者を治療して名を挙げた。翌文久2年幕府の西洋医学所教授助手を命じられ、1866(慶応2)年軍艦播竜の医官となった。1869(明治2)年大学大得業生となり、さらに大学南校(東京大学医学部の前身)の少助教・中助教・権大助教などを歴任して内科部長に進んだ。その間、ドイツ人の御雇医師ミュラーやホフマンらから親しく教えを受けた。明治8年医学校付属病院長となったが、翌明治9年退官して神田駿河台で医業を開いた。明治10年西南戦争が起こると、軍医を志願して一等軍医正に任命され、大阪の臨時陸軍病院に勤務した。翌明治11年東洋の発案で政府が神戸に脚気病院を設立すると、洋方の主任に選ばれて脚気の研究に専念した。明治13年同病院が廃止されると、翌明治14年東京・駿河台に杏雲堂医院を設立して脚気病院の患者を収容した。これ以後、本郷の順天堂医院とともに民間病院の代表として広く知られた。明治19年内務省中央衛生委員に選ばれ、明治23年東京医会が設立されると、会長に推されて開業医の医術向上に献身した。訳著書に「内科提綱」「診法要略」などがある。

出雲町は、昔遊郭のあった川端通りを通らないか

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出雲町は、昔遊郭のあった川端通りを通らないか

そうではないようである。石橋から斜行エレベーターの下に真直ぐ行くと、昔の街道と思われる道が鍋冠山の山際を巻くようにして戸町峠と呼ばれた二本松神社のある所まで続く。途中、二本松車道の大カーブ地点に出、車道をそのまま登る。急勾配となりここを本当に通ったかと思うが、江戸後期の絵図、明治初期の地図などで調査しても間違いない。湧き水休憩所に道塚があったとも言い、道の途中に地蔵が見られる。山道だったのでもう少しゆっくり登れたのではないか。
戸町・稲佐などと並び称される出雲の川端通りの遊郭は、明治25年にできたものである。

図は上 「大村管内絵図 地方(じかた)」 江戸後期(作成年不明) 長崎歴史文化博物館蔵
下 明治17年国土地理院旧版地図の長崎市街図一万図と幕末大浦地域図

大浦の石橋にある石碑はなにか

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大浦の石橋にある石碑はなにか

大浦の石橋の横断歩道手前に建っている2本の大きな石柱は、「大浦橋」及び「寄附者 大浦郷 林増五郎 村川勝太」「職工 渡邊嘉兵衛」とある。昔、架かっていた石橋の欄干らしきものと考えられる。

青い街灯のある団地

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青い街灯のある団地

長崎市南部のわが団地。本年1月から団地入口から300mほどの緩やかな下り上りのある直線道路バス通りに、青い街灯15灯が設置されている。初めて見たとき、青色の妖しげな光の列に惹かれた。

今までの白色などの街灯に比べ明るさはやや劣るが景観が良くなり、青色は人の心を沈静にさせる。防犯上に効果があるそうだ。このため長崎市が試験的に導入したらしい。浜口商店街にも20灯が設置されている。
ほかに防犯協会が東山手に11灯、自治会が竿の浦に8灯、平山に11灯をつけている。消費電力は変らない。ただ電球の寿命が短いらしい。(市道路維持課の話)

全国のあちこちで以前から設置が進んでいるようだがまだ珍しい。長崎でもあまり見られない夜の光景である。照明の写真は撮りにくい。手前の街灯は白っぽく写った。昼の通りの状景も添えてみた。

川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

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川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

川原の民俗芸能に「まだら」というのがある。一種の祝い歌にもなり、新築祝や結婚式では「祝いめでたの若松さまよ、枝も栄えて、葉も茂る」となる。昭和40年頃までは良く歌われた。ただし川原でも上川部落だけである。「まだら」は曼荼羅の訛ったものである。曼荼羅のように祝事によって歌詞が異なるところから名付けられたものという。佐賀県玄海町沖馬渡島にルーツがあるという説もある。川原では長い間途絶えていたが、1本の古いテープによって、平成15年復活した。
川原の「ハイヤ節」は、ハイヤ節の源流といわれる平戸の「田助ハイヤ節」の歌い出しによく似ている。「まだら」「ハイヤ節」とも歌詞の中で、「みさき道」に関係するものは見あたらない。

「三和町郷土誌」によると「帆船の時代には浦々に風待ちの港があり、船が入ると船乗りたちは、そこで何日かを過し、いろいろな情報の伝達者ともなる。そのような人達によって伝えられたものかもしれない」とある。ある時、「みさき道」との関連を問われていたので参考のため調べた。