投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5391 ダグラス号

目録番号:5395 A.S.が撮影したダグラス号          (掲載略)

目録番号:5396 香港に到着したダグラス号

目録番号:5397 ディオュで座礁したダグラス号         (掲載略)

■ 確認結果

ベアト等アルバムの「ダグラス号」関係4作品。いずれも同じような光景であり、香港の港で撮影されたと思われる。
掲載を略した作品の、「A.S.」は人名、「ディオュ」は近くの地名のようだが、不明。

目録番号:5391「ダグラス号」と、目録番号:5396「香港に到着したダグラス号」は、同じ写真である。香港に到着したダグラス号を撮影しているなら、「撮影地域:香港」となろう。
目録番号:5397「ディオュで座礁したダグラス号」も、同じ写真である。
目録番号:5386「廈門港で座礁したアメリカ船」の作品もあるが、船は少し違うようだ。

長崎の古写真考 目録番号:5334 上級武士の家族 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5334 上級武士の家族 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5334 上級武士の家族
〔画像解説〕
明治5年ごろ上野彦馬撮影。大村藩30代藩主で文久3(1863)年には長崎総奉行を勤めた純熙(すみてる)の家族写真。純熙は明治2(1869)年の版籍奉還で藩知事、明治4年の廃藩置県で引退した直後の明治5年ごろ撮影。場所は長崎の大村屋敷(現中町教会)の玄関。

目録番号:5335 上野彦馬と家族
〔画像解説〕
明治3〜4年ごろの上野写真館における上野彦馬の家族写真。写されているのは彦馬をはじめ、彦馬の母伊曾(いそ)、彦馬の妻むら、彦馬の4人の妹たち、この、(牧)ちえ、ぬさ、にわおよび牧の娘なかと元次郎である。

目録番号:5332 男性の肖像(52)        (以下、掲載略)

目録番号:5333 男性の肖像(53)

目録番号:5336 日本人の集合写真

■ 確認結果

上野彦馬アルバム。連番号からいうと、目録番号:5332 から、目録番号:5336 までの5作品。〔撮影地域:未詳〕となっているが、いずれも長崎の上野写真館などで撮影されたのではないだろうか。

特に目録番号:5334「上級武士の家族」は、「大村純熙(すみてる)の家族写真。明治5年ごろ撮影。場所は長崎の大村屋敷(現中町教会)の玄関」。次の目録番号:5335「上野彦馬と家族」は、「明治3〜4年ごろの上野写真館における上野彦馬の家族写真」と、はっきり画像解説している。

長崎外の古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1433 原宿の庭
〔画像解説〕
純日本風の屋敷の庭園で、日本髪に着物姿の女性が4人、髷を結い羽織袴を着た男性が2人。記念写真風の構図である。

■ 確認結果

目録番号:1433「原宿の庭」は、「撮影地域:静岡」。具体的な場所は、沼津市原にある「帯笑園(たいしょうえん)」。旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園である。
厚木市所蔵のベアト写真集に、「原宿 帯笑園」と題されて掲載されている。

静岡県「しずおかネットテレビ/5ch」しずおかお楽しみ情報による説明は次のとおり。現在の写真も同から。 
帯笑園(たいしょうえん)
沼津市原にある帯笑園は、旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園として造園され、その美しさは幕末の博物学者シーボルトも絶賛したと伝えられています。当時の庭の在り方を示す、貴重な歴史資料ともいえるこの庭は、後世に残すべき日本の園芸文化の遺産です。

なお、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”は、この作品を次のとおり取り上げている。

…1867年富士登山の途中で静岡・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルックが長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。
79  静岡・原宿植松家の人々
9年ぶりの再会である。ベアトが同行した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブルックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No.78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

長崎外の古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2)
〔画像解説〕
田子の浦より見た富士山。現在の沼川、鈴川付近の橋。人力車と旅人を眺める人物は舟の船頭か。舟は比較的大きな和船で荷船であったと考えられる。

目録番号:1220 田子ノ浦沼川からの富士山(10)
〔画像解説〕
静岡県東部、駿河湾奧にある田子ノ浦橋と富士山。左端には3隻ほどの荷船も見える。万葉の歌人山部赤人が、歌枕に読み込んだ地としてあまりにも有名である。

■ 確認結果

田子ノ浦から富士山を写した作品は多い中、目録番号: 168「田子ノ浦沼川からの富士山(2)」だけ、「現在の沼川、鈴川付近の橋」と画像解説している。
鈴川付近の有名な橋「河合橋」ではない。
鈴川の「河合橋」は、 https://misakimichi.com/archives/2289

次の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」のとおり、この橋は、「田子ノ浦港(昔の吉原湊)手前の便道に架かっていた田子ノ浦橋(明治6年架橋)」である。
この点は、次HPが指摘しているので参照。

画廊アモン Sideway 古写真2  http://yass.m78.com/sideway/hakone/koshyashin2.html
上段の写真はお気に入りの1枚で、田子の浦からの富士山です。写真の説明には「現在の沼川、鈴川付近の橋」とあったので地図で調べたところ、富士山の方向に流れがあるのは和田川との合流後のわずかな区間だけでした。もし私の考えが正しいのなら、写っている上流部は和田川であり、すぐ先には左富士神社が有る筈です。下段の写真は、富士と港の見える公園から田子の浦港を写したものです。左端に写っているループ陸橋の辺りが古写真右側の松林だったのではないかと思っています。本来なら正面に富士山が写っている筈ですが、ご覧の様に雲に覆われてしまいました。

田子の浦から見る富士山(晴れた写真) http://mohsho.image.coocan.jp/tagonourafuji03.html
「富士と港の見える公園」から見た午後の富士山、2008年1月25日
「山頂は左端で尖り)、宝永山が右稜線に」が確認できる。

2枚目の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」は、1886年にA.ファサリが撮影した写真である。  http://mini1000.posterous.com/1880-gigazine
同上末尾の出典 Japon 1886 – Adolfo Farsari – a set on Flickr をクリックすると、A.ファサリによる1880年代の日本のさまざまな彩色写真を見ることができる。

長崎の古写真考 目録番号:5337 お茶の梱包(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5337 お茶の梱包(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5337 お茶の梱包(2)

■ 確認結果

目録番号:5337「お茶の梱包(2)」は、上野彦馬撮影。アルバムの作品の続きから「撮影地域:長崎」となるだろう。長崎大学附属図書館もそのように判定している。
長崎新聞HP「龍〜なが」から長崎新聞2010年12月5日記事は次のとおり。

龍馬動く 関連企画 (2010年12月5日更新)   長崎新聞
長崎遠めがね 古写真に見る町と人 長崎大付属図書館協力・46 お茶の梱包

幕末には輸出品トップ

長崎から初めてお茶が輸出されたのは、1856(安政3)年のことである。長崎の油商の家に生まれた大浦慶が、イギリスの商人オルトの注文をうけ、嬉野などから大量のお茶を集めてアメリカに輸出したのが最初である。
66(慶応2)年には、当時、長崎で最大の輸出品であった海産物を抜いて、輸出品の第1位を占めるようになった。このころから明治にかけて、大浦居留地にはグラバーやオルトなどが大規模な製茶工場を建て、何百人もの人が、乾燥や箱詰めの作業に当たっていた。
(長崎大付属図書館長・柴多一雄)

長崎外の古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5276 門司連絡桟橋
〔画像解説〕
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前のポストやガス灯、人力車が印象的である。明治末〜大正初期の撮影と推定される。

■ 確認結果

目録番号:5276「門司連絡桟橋」のタイトルは、「門司十二景」絵葉書の題どおり、「門司連絡桟橋通り」とするべきだろう。

布巻から寺岳と佐敷岳へ  平成23年3月

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布巻から寺岳と佐敷岳へ  平成23年3月

平成23年3月13日(日)快晴。布巻から寺岳(標高451.8m)と佐敷岳(標高502m)へ。3月6日が雨のため延期して実施。参加12人。みさき道歩会の例会。
三和行政センター前9時30分発—布巻—草墨神社ー寺岳11時50分着(昼食)—佐敷岳13時20分着—松尾岳—平山ー三和行政センター前15時40分着(徒歩距離約12km)

集合場所の三和行政センター前、1枚目右上に写る山が、八郎岳南の山系の寺岳・佐敷岳。あの2つの尾根を登って下る一周コース。布巻から寺岳へは、平成17年12月。佐敷岳から平山へは、平成19年2月以来となる。近くの山なのに、長く歩いていなかったので、登山道を確認する。

寺岳へは布巻のサイクリング道路に、朝霧が付けた谷コースと尾根コースの道標がある。もちろん尾根コース。寺岳中腹の草墨神社で両道は合う。神社の上は迷いやすかったが、植林内の急な尾根を直登すると、寺岳三角点へ出る。展望が良い利作岩で昼食。

寺岳12時30分発、八郎岳縦走路を50分歩いて佐敷岳へ着く。野生鹿はこの辺りに多いが、きょうは出会わなかった。佐敷岳から松尾岳へ急な尾根を、1ピッチ45分で下る。
松尾岳は平山方面から眺めると、高い山に見えないが標高297mある。急な下りがまだ続き、やっとサイクリング道路へ出た。
以前に比べると、植林が大きくなり、登山道は踏みならされ、歩きやすいコースとなっていた。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27430588.html

長崎外の古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4760 庭園と芸奴

目録番号:4447 王子の茶屋(扇屋)(9)
〔画像解説〕
キャプションに扇屋とある。落語「王子の狐」はこの扇屋を宣伝するPR落語。若い娘に化けた狐に声をかけて、扇屋に連れ込み、ご馳走を食べ、狐に酒を飲ませ、寝込んでいる間にドロンして狐に勘定を払わせようとする噺。後日饅頭を持って狐に謝りに行った時、「馬の糞かもしれない」と狐が言うのが落ちである。

■ 確認結果

目録番号:4760「庭園と芸奴」は、次の目録番号:4447「王子の茶屋(扇屋)(9)」の庭園と同じ
でないだろうか。
2器の庭園灯、立木、石の配置などが似ている。護岸の川は流れをまっすぐに変えているようである。

長崎外の古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4609 遊郭(2)
〔画像解説〕
右手の建物の1階が張見世になっているので妓楼だと思われるが、左側の建物は旅館のような造りになっている。詳細は不明。  

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
〔画像解説〕
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

■ 確認結果

目録番号:4609「遊郭(2)」は、次の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」(「神風楼」が正しい)のとおり、横浜の「高島町神風楼」ではないだろうか。
右側の屋上に緑色の手すりがある建物の造りが同じようである。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:4600 浦 賀

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4600 浦 賀

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4600 浦 賀

■ 確認結果

目録番号:4600「浦賀」は、写真左下に”URAGA”とある。画像解説がないが、写っている寺は、浦賀湾の景色から横須賀市西浦賀の「東福寺」と思われる。

現在の東福寺の展望と明治地形図は、HP「まちあるきの考古学|浦賀」から。
現在の東福寺の写真は、HP「黒船写真館 西浦賀散歩」から。同の横須賀市ホームページより引用文は次のとおり。

東福寺(延命山・曹洞宗太玄派)

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になりました。江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家 酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。

江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に 向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに 船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。
船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。この観音菩薩は三浦三十三観音の十三番札所になっています。かつて観音堂脇に湧いていた水は「甘露水」といわれた良い水でした。