投稿者「misakimichi」のアーカイブ

大正十一年頃のガラス写真 080ほか 諏訪神社の長坂・神燈

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 080ほか 諏訪神社の長坂・神燈

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
080,169  (諏訪神社の長坂・神燈)

目録番号:6033 諏訪神社の長坂(6)

目録番号:5092 諏訪神社神燈
〔画像解説〕
明治後期から大正初期(1900年前後)頃の手彩色の絵葉書。諏訪神社は秋のくんちで有名な長崎の氏神である。諏訪神社の神燈と周囲の風景を写した絵葉書であるが、得られる情報はほとんどない。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号080,169は、長崎「諏訪神社」の長坂と神燈であろう。
長崎大学データベースには、目録番号:6033「諏訪神社の長坂(6)」と、目録番号:5092「諏訪神社神燈」に、同じような作品がある。

現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。
長坂の下に、日本三大くんち「長崎諏訪神社お宮日」に奉納される踊り場の広場があり、大鳥居の列が写っている。長坂の石段が、無料で見物できる特等席となる。
神燈は、長坂上の大門に吊るされたものであろう。山の稜線で確認できる。

大正十一年頃のガラス写真 076ほか 諏訪神社の回廊・手水場

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

大正十一年頃のガラス写真 076ほか 諏訪神社の回廊・手水場

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
076,249  (諏訪神社の回廊・手水場)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号076,249は、長崎「諏訪神社」の旧回廊と旧手水場であろう。
現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。

回廊は、背後の山から諏訪神社だろう。長坂上の大門の左右にあり、改修されている。太鼓楼の先端石垣のところから確認できる。手水場も大門と回廊が奥に写っているから、諏訪神社だろう。現在は場所が移されているが、石材は当時のものである。

大正十一年頃のガラス写真 075ほか 諏訪神社の社務所

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 075ほか 諏訪神社の社務所

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
075,118,297  (諏訪神社の社務所)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号075,118,297は、長崎「諏訪神社」の旧社務所であろう。
1枚目と3枚目は、長崎公園側から、2枚目は拝殿側から撮影している。
現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。

同じ旧社務所の玄関は、HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」に投稿されている。「戦前の諏訪神社の本殿横での祖母の記念写真です。カメラの後方は長崎公園です」とあり、説明は合致するので参照。  http://naagle.com/photos/view/229

大正十一年頃のガラス写真 072ほか 諏訪神社の拝殿・中門

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

大正十一年頃のガラス写真 072ほか 諏訪神社の拝殿・中門

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
072,119,124,290  (諏訪神社の拝殿・中門)

目録番号:2866 諏訪神社境内(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
長坂を上がり総門をくぐった正面から、左側に肥前有田(現佐賀県有田町)から明治4年(1871)に献納された高さ約2.7mの陶器製常夜燈、街灯、右側に明治3年(1870)奉納の青銅の馬、明治2年(1869)に再建された諏訪神社中門の風景である。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真ではみえない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。諏訪神社は現在の松森神社の地に、寛永2年(1625)再興され、慶安4年(1651)現在の場所に遷宮した。この中門は延寳7年(1679)に創建され、享保3年(1734)の改修後も度々修理が行われたが、安政4年(1857)の火災により焼失した。明治2年(1869)に再建され、さらに昭和58年(1983)御鎮座360年を迎えて大改修が行われた。

目録番号:5094 諏訪神社(7)
〔画像解説〕
明治後期から大正初期(1900年前後)頃の手彩色の絵葉書。長崎市諏訪神社の拝殿。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。明治初期の古写真や手彩色の絵葉書で、数多く紹介されている。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号072,119,124,290は、長崎「諏訪神社」の旧拝殿・旧中門であろう。
長崎大学データベースには、目録番号:2866「諏訪神社境内(1)」、目録番号:5094「諏訪神社(7)」などの作品がある。

現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。
旧中門は、現在の拝殿坂段の上部途中にあり、拝殿との間に回廊の屋根を渡していた。中門とも取り払われ、門は長坂上の大門のみとなっている。

長崎の西空の夕日  13−02

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

長崎の西空の夕日  13−02

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜  3  2013年 4月 3日の18時36分頃
写真  4〜  6  2013年 4月 4日の18時42分頃
写真  7〜 10  2013年 4月19日の18時40分頃
写真 11〜 12  2013年 4月27日の18時51分頃

2013ながさき帆船まつり閉幕

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

2013ながさき帆船まつり閉幕

2013年4月29日午後3時過ぎ、長崎港を出港する帆船「日本丸」。女神大橋近くから。あとは松が枝国際観光埠頭に接岸中の「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」と、水辺の森公園のにぎわい。夜の写真は午後7時過ぎ、小ヶ倉沖を出港するシーズ。
朝日新聞長崎地域版の30日記事は、次のとおり。

長崎帆船まつりが29日、閉幕した。長崎市は5日間の集客が20万3千人だったと発表した。
20万人を超えたのは2年連続で、5日間とも好天に恵まれたことなどが要因。29日は豪華客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズ(バハマ船籍、13万7276㌧)も寄港し、にぎわいに彩りを添えた。
市観光政策課によると、今年は初めてキャラクターショーなどの子ども向けイベントを取り入れ、家族連れの集客につながったという。今年は過去7番目の集客で、目標の18万人を上回った。

大正十一年頃のガラス写真 018ほか 茂木街道

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 018ほか 茂木街道

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
018,019,096  (茂木街道)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号018,019,096は、「茂木街道」の風景と思われる。長崎大学データベース目録番号:1365「茂木街道(2)」にもあるとおり、明治20年(1887)に完成した旧県道。田上峠の転石から若菜川支流の河平川谷間へ下り、黒橋へ出て茂木へ至る。

大正十一年頃のガラス写真 003ほか オランダ坂

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 003ほか オランダ坂

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
003,245  (オランダ坂)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号003,245は、長崎市東山手町の活水大学登り口の「オランダ坂」と思われる。遠くに写る山の稜線は稲佐山だろう。