投稿者「misakimichi」のアーカイブ

小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

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小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。蔵之元港への国道389号に小浜崎古墳公園への入口案内板がある。

小浜崎古墳群
【所在地】出水郡長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 58 年4月 13 日

小浜崎古墳群は,長島の西北部,東シナ海に細く突き出た丘陵に点在する鬼塚古墳1号墳・2号墳,白金古墳,小浜崎古墳の総称である。
鬼塚古墳1号墳は,6世紀中葉から後葉にかけての横穴式石室をもつ高塚古墳である。羨道をもつ複式石室の構造は,北九州・畿内タイプの要素が強く,本県唯一のものである。
鬼塚古墳2号墳は,竪穴式で複式の箱式石棺を有する。
白金古墳は,6世紀中葉の横穴式石室をもつ積石塚古墳である。形式的には,柄鏡式に近いが前方後円墳であるかは不明である。墳丘は,長径 7.3m,短径 5.7m,高さ 1.7m の小規模なものだが,金環,ガラス小玉類その他の副葬品が確認されている。
小浜崎古墳は6世紀中葉と推定され,中心に地表下 20 〜 30cm ほど掘りこんだ竪穴式石室をもち,その上に円形の墳丘があったと推定される。石室は,扁平な割石を小口積みにして側壁をつくっている。過去に盗掘にあっているためにめぼしい副葬品はないが,昭和 39(1964)年の発掘調査で鉄剣破片等が確認されている。

入来町小路の石敢当  薩摩川内市入来町浦之名

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入来町小路の石敢当  薩摩川内市入来町浦之名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。本ブログ次を参照。
入来麓周辺の「石敢当」調査(概略図⑤〜⑪分)  https://misakimichi.com/archives/4132
前回不明の小路の石敢当は、薩摩川内市入来支所に調査をお願いし、私自身で確認していなかったため、今回の帰路立ち寄り、概略図⑨、⑩の石敢当を撮影してきた。

入来町の石敢當1 いりき
薩摩川内市 石敢當 高49㎝,幅13㎝ 元文4(1739) 市教委/ 日本の石敢當p146 石垣に埋もれている (正面)「石敢當」 3 C

薩摩街道の妹背橋  薩摩川内市高城町

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薩摩街道の妹背橋  薩摩川内市高城町

HP「旧街道ウオーキング 人力」薩摩街道を歩く2008年11月26日(水)記事は、次のとおり。

牛ノ浜〜西方御仮屋〜上川内〜JR川内

…「西郷どんの手水鉢」が左手にある。弘化3年(1846)岩永三五郎の設計で石造りの美しい眼鏡橋の妹背橋が架けられたが、この工事に座書役として従事したのが18歳の西郷隆盛だった。竣工までの3年間宮園さん宅に奇遇し、朝夕この手水鉢を使ったと説明されている。

高城川に架かる「妹背橋」を渡るが、その手前右側に行ったところに妹背橋についての説明板がある。ここも丸目さんに教えていただいたところだ。それによると初代妹背橋は木造桁橋であったと思われ、その後弘化3年
(1846)に第二代妹背橋は石造り眼鏡橋に造りかえられている。この石橋は二連の角石をアーチ型に組み合わせ、高城川の洪水の激流に耐えられるように、底辺は特に大きな角石を敷き詰め、底堀りによる流失を防ぐように設計された優美な眼鏡橋だった。熊本県出身の名工岩永三五郎がこの橋の設計を行ったが、岩永はこのほかに甲突川の五石橋をはじめ三十五の石橋を架橋し、川内市出身の阿蘇鉄矢とともに石橋造りに尽くした人物として有名だ。また二十歳の西郷隆盛が工事の監督を行ったとされている。三代目、四代目の妹背橋は鉄筋コンクリート橋に変わっていると説明されている。

橋を渡るとすぐに道標があり、左折して進む。右手に京セラの大きな工場があり、その裏を通って進む。高城郷の野町跡の案内板が立っている。それによるとこの通りは薩摩藩公認の野町〈商業町)のあったところで、紺屋〈染物屋)、人形屋、焼酎屋、旅籠などが軒を連ね、賑わっていたと書かれている。町並みもなんとなく昔を感じさせるものがある。…

鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋  鹿児島市稲荷町

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鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋  鹿児島市稲荷町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。前記事も参照。

№1,524  大乗院橋

鹿児島市稲荷町
稲荷川
橋長:15.0m  橋幅:下幅9.9m  径間:11.0m  拱矢:4.9m
架設:平成2年3月
稲荷町、清水中学校前の稲荷川に架かっています。
RC橋ですが平成に生まれ変わった石橋としてカウントしました。

大乗院橋  (池之上町若宮公園に縮小復元されている大乗院橋の現地説明板)
「大乗院橋は、薩摩藩の祈願所であった宝成就寺大乗院(現在の清水中学校のところにあった寺)の参道に架けられた橋で、もともと板橋でしたが、天保13年(1842)岩永三五郎により石橋につくりかえられました。
大乗院橋は長さ14.5m、幅4.2mで、橋の中央が道路の両側より大きくせりあがり、アーチの丸みが強く美しい石橋でした。
しかし、昭和63年(1988)夏の大雨により、大乗院橋のアーチを形作る輪石などの一部が破損・流失しました。
平成10年(1998)3月、旧大乗院橋の残された石材を主に使用し、若宮公園に2分の1に小型化した石橋が完成しました。その姿は往時の面影を残しています。」

鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋(縮小復元)  鹿児島市池之上町 若宮公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋(縮小復元)  鹿児島市池之上町 若宮公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。次記事も参照。

№1,513  大乗院橋(縮小復元)

鹿児島市池之上町 若宮公園内
移設後   橋長:7.25m  拱矢:1.97m
移設:平成10年(1998)3月
照国神社前から国道10号線を1.9Km北上、春日町交差点を左折、交番を左に見て150m先に若宮公園があります。

大乗院橋 (現地説明板)
「大乗院橋は、薩摩藩の祈願所であった宝成就寺大乗院(現在の清水中学校のところにあった寺)の参道に架けられた橋で、もともと板橋でしたが、天保13年(1842)岩永三五郎により石橋につくりかえられました。
大乗院橋は長さ14.5m、幅4.2mで、橋の中央が道路の両側より大きくせりあがり、アーチの丸みが強く美しい石橋でした。
しかし、昭和63年(1988)夏の大雨により、大乗院橋のアーチを形作る輪石などの一部が破損・流失しました。
平成10年(1998)3月、旧大乗院橋の残された石材を主に使用し、当若宮公園に2分の1に小型化した石橋が完成しました。その姿は往時の面影を残しています。」

垂水千本イチョウ  垂水市新御堂

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垂水千本イチョウ  垂水市新御堂

垂水市観光協会HP「鹿児島県垂水市の観光案内-たるみずinfo」による説明は、次のとおり。NPO法人かごしま探検の会により「世間遺産・僕立公園」に指定されており、見頃は12月上旬となっている。垂水市役所前の県道71号線を東へ、車で約10分(約4.7km)

垂水千本イチョウ
30年程前、中馬吉昭氏が先代から引き継いだミカン山(荒れ放題)を前に思い描いたのはここに銀杏を植え東京原宿にある銀杏並木を再現できないかという事だった。中馬家は畠山重忠の流れで垂水伊地知家の分家にあたり氏で29代目になる。東京のデパートをやめ、帰郷した氏は鹿児島の不動産屋に勤める傍ら休みの日にコツコツ切り開き(平地なら機械もはいるが傾斜のきつい段々畑、ほとんど手作業)最初植えたのは7本だった。(木市で買ってきた)現在1200本

銀杏の見ごろは毎年異なるが22年度は11月25日~12月10日、23年度は12月1日~20日だった。気候の変化(紅葉する頃の寒暖差が大きい程きれいである)に影響される。中馬氏が一番恐れているのは台風で実が落ちてしまうこと。熟さない内に落ちると収穫ゼロで紅葉も葉が傷むと深い黄金色にならない。
銀杏だけでなく駐車場近くに樹齢100年以上といわれる山桜がある。氏は春も楽しめるよう山桜の苗100本を植えたそうです。

中馬吉昭氏のプロフィル
千本銀杏の中馬さんの事は県内はもとより最近は全国レベルにまでなったが他の顔もいろいろとおもちで自宅近くにある手貫神社の氏子として月1回の清掃は欠かさない。この手貫神社には氏の先祖中馬重頼が大永2年(1522)肥後氏と戦った時使用した長刀が(約2メートル)保管されている。この長刀、もともと馬込集落の荒人神社に奉納されていたが賊に盗まれた。後に返ってきたが物騒なので今は手貫神社に保管されている。指定はうけていないが今から489年前の戦国武将が戦に使用し(重頼はこの戦で戦死)たものが残っている。

他にも垂水の数々の委員をされ、スタートした当時道の駅たるみず、生産者代表も務められた。午前中は銀杏山の手入れ、午後は読書まさに晴耕雨読の日々です
第1回鹿児島景観大賞「個人)を受賞、 かごしま検定グランドマスターを取得

たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

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たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。「たかくまふれあいの森」は場所がわかりにくいので、地図を載せる。

たかくまふれあいの森  鹿屋市下高隅町

「たかくまふれあいの森」は鹿屋市下高隅町の谷田バス停近くの林道から入り、1.4kmの地点にある。この森は、森林保護・森林教室用として大隅森林管理署が管理している「水源かん養保安林」である。低地ながら、南日本特有の照葉樹林をつくるアカガシ、シイノキ、タブノキ、イスノキなどの天然広葉樹が原生に近い形で残っており、学術的にも貴重な場所である。

森の中のスダジイ(イタジイ)の巨木は、推定樹齢250年、樹高22m、幹周り609cmもあり、林野庁の「森の巨人たち100選」に選ばれている。森の近くには「神水の池」と呼ばれる一日当たりの湧水量が190万ℓの神秘的な池がある。「たかくまふれあいの森」は、里山で登山というより照葉樹自然散策や自然観察に適した場所である。近くには九州電力谷田発電所や谷田の滝、観音淵などの名所・遺跡がある。

樹林内は南日本特有の照葉樹林を形成する樹齢250年余りのタブ、クス、シイ、カシなどが原生林に近い形で残されている。80種類ほどの樹木がみられ、それぞれ樹木には樹木名プレートが付けられ、クイズ形式で各樹木の特性等が記してある。

高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

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高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

鹿屋市街から国道504号により高隅ダムまで行く。高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)の風景。
ウィキペディアフリー百科事典、じゃらんnetによる説明は、次のとおり。

高隈山地
高隈山地(たかくまさんち)は、大隅半島中央部の鹿児島湾沿いに連なる山地である。一般には鹿児島県鹿屋市と垂水市との境界付近に横たわる南北約25km、東西約15kmの山地を指し、その中心部にそびえる大篦柄岳や御岳などを含む標高1,000m以上の山岳群を総称して高隈山(たかくまやま)と呼ぶ。
地理
日本におけるブナ林の南限があり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定されている。また、高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地は「高隈山県立自然公園」に指定されている。高隈山(日本三百名山及び九州百名山に選定されている。) 大篦柄岳(おおのがらだけ)- 最高峰、標高1,236m[1]
歴史
古くから山岳信仰の対象とされており、江戸時代末期の毎年3月から4月にかけて盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳、権現岳、中岳、近戸宮を巡る七岳参詣が行われていた。盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳は樹木を御神体としていた。[2]
地質
地質学における高隈山地は高隈山付近から霧島山の南東付近まで連なる南北約60キロメートルの山地を指す。白亜紀に堆積した四万十層群と呼ばれる地層が隆起したものを基盤とし、阿多カルデラ、姶良カルデラ、加久藤カルデラなどの火山活動による噴出物が積み重なっている。
大篦柄岳の西側斜面には第三紀に形成された直径約7キロメートルの花崗岩ドーム「高隈花崗岩体」があり、その周辺部にタングステン、モリブデン、金、ビスマス、ウランなどの鉱脈が存在する。大篦柄岳や御岳などの山塊は、花崗岩の形成に伴い周辺の地層が加熱され緻密なホルンフェルスとなったため侵食から取り残されたものである。

高隈城址
中世に築城されたものと推定される。『三国名勝図会』にみると、永禄(1558)のころは肝付兼続に属し、そのあと伊集院忠棟の所領と変わり、文禄4年(1595)には細川幽斎が豊臣秀吉から与えられている。そして慶長4年(1599)には島津義弘の征韓の軍功によって、また島津氏に復したと記されている。

高隈ダム(大隅湖)
高隈ダム(たかくまダム)は鹿児島県鹿屋市下高隈町古園、一級河川・肝属川水系串良川に建設されたダムである。
かんがいを目的に農林水産省九州農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、堤高47.0mの重力式コンクリートダムであり大隅半島では最大規模のダムである。長年不毛の大地であった笠野原台地への農業用水を供給する「国営笠野原農業水利事業」の根幹施設として建設された。ダムによってできた人造湖は旧国名である大隅国より大隅湖(おおすみこ)と呼ばれている。
歴史
鹿屋市市街地の北東部に広がる笠野原はシラス台地と呼ばれる保水力の小さい火山灰土壌の高台であり、川は深い谷を穿っているため農業用水や生活用水を得ることが困難な土地であった。このため地域によっては80メートル以上の深さの井戸を掘り、牛の力を借りて水を得る有様であった。このような状況を改善するために1947年(昭和22年)頃からダム建設の検討が行われ、1959年(昭和34年)に着工され、1967年(昭和42年)3月に完成した。ダムの建設に伴い約200戸の住民が移転を余儀なくされた。灌漑面積は4,807ヘクタール[1](笠野原自体は6,000ヘクタール[2])におよぶ。

肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

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肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

現地説明板は、次のとおり。柏原小学校西側の乾馬場という一帯が武家屋敷の続く通り。萩原家武家門のところに石敢當があったが、この通りの奥が熊野神社。宝篋印塔は境内左にある。

町指定文化財[史跡]  肝付兼経夫妻の宝篋印塔   昭和54年4月1日指定
宝篋印塔はもともと仏舎利及び宝篋印陀羅尼経を納める塔であったが、平安時代の末頃から供養碑等にこの形が用いられるようになりました。
この石塔は相輪の宝輪数その他の彫刻、形状等から鎌倉時代のものである。
更に笠石の連弁刻出は肝付氏をあらわしており相輪の文様、伏鉢の刻出は時代的に見て肝付氏二代兼経夫妻のものと言われる。
これは昭和52年に南九州古石塔研究会の黒田清光等によって発見考証された貴重な石塔であります。
東串良町教育委員会