大平寺墓地の小曽根乾堂の墓 長崎市東琴平1丁目
小曽根町の町名の由来となった「小曽根乾堂」。幕末から明治にかけて長崎を代表する実業家の豪商であるとともに文化人だった。晧台寺の小曽根家の墓に乾堂の墓はない。鍋冠山山麓の大平寺墓地に眠る。
浪の平町の長崎市南公民館先から金刀比羅神社参道口の鳥居へ入る。途中の境内広場に小曽根乾堂の銅像があり、最上部の金刀比羅神社本殿まで急な坂段を登る。
社殿左の豊金稲荷大明神の横道を行くと、小曽根家の墓所へ着く。
長崎港の見晴らしが良い寺墓地の最上段。赤煉瓦造の見事な門と塀囲いの一角がある。格調が高い、乾堂らしい墓所だった。
偶然、たどり着いた墓所。長崎に関するあれこれ、よもやま話HP「長崎雑記帳」に次のとおり、名文があったので紹介させてもらう。同氏は墓所まで訪ねられたのだろうか。写真がなかったのは、残念としか言いようがない。
後ろの3枚の写真は、下段にあった珍しい高戸家の墓所と大きな石碑。
小曽根乾堂の造営地 2007年2月20日
桜の時期に夜桜見物の灯りを見上げるばかりだった金刀比羅神社はどんなところかと浪の平から登ってみた。最初の鳥居には伊都岐嶋神社とあった。金刀比羅・伊都岐嶋両神社が一緒に鎮座してるのだ。メタボ状態で、本殿までの傾斜のきつい階段道はけっこうこたえる。途中、ひっそりと立つ銅像を発見。小曽根乾堂像・写真右・であった。金刀比羅神社は、当初、大浦道栄(下り松・現在の松ヶ枝)にあったが幕末の開港で居留地になり、小曽根乾堂が尽力して現在地に移転した。
小曽根家の祖は、平戸の貿易商・平戸道喜。長崎に移り出島を造築した25人の出島商人の一人である。後に小曽根を名乗る。小曽根家は、その後家運を衰退させたが、乾堂の父、六左衛門は、越前・佐賀藩などの御用商人となり、これを乾堂が継ぎ、江戸時代末期から明治にかけて長崎を代表する豪商となった。
乾堂は、本名を六郎といい、若くから有名な書家・画人・学者に学び、才能を発揮、特に、篆刻(てんこく)家として名高い。また、勝海舟や坂本龍馬との親交もあり海援隊を支援した。乾堂の墓は金刀比羅神社本殿横道につながっている大平寺の墓地にある。
小曽根町の由来と浪の平小学校
小曽根の町名は小曽根乾堂に由来する。乾堂は、文化人であるとともに事業家である。彼の事業家としての最大の功績は、安政6年(1859年)開国の年に、現在の松ヶ枝、小曽根、浪の平一帯を自費で造営したことであろう。この造営地はやがて外国人居留区になった。その後、この一部が小曽根町と名付けられた。
乾堂は私立小曽根小学校も設立した。この学校はその後、長崎市に寄贈され浪の平小学校となった。さてその浪の平小学校は北大浦・南大浦と合併された。いまは廃校された浪の平小学校の校舎は空き家になっている。
歴史ある小学校の跡は今後どうなるのだろうか。写真はプール坂と呼ばれている。この坂の最上部角に居留地境の石碑が幾分朽ちかけてある。この境石から役目を終えたプールが見えた。坂の途中からは荒れはじめている運動場が見える。
明治20年(1887)に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(後の浪ノ平小学校)の古写真は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1546