深堀に入る峠とはどこか。明治29年深堀「森家記録」と「鳥越」とは

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深堀に入る峠とはどこか。明治29年深堀「森家記録」と「鳥越」とは

A 深堀に入る峠とはどこか

峠と考えられるのは、ナフコの谷を上り深堀のアパートに抜ける峠で、土井首では「殿様道」と言われる。真鳥氏も書かれている岩河の地蔵尊へ出る道である。しかし長崎から行くときになぜそう遠回りしなければ深堀に入れなかったのか。
関寛斎日記に書いている「入口に峠あり」にひっかかり、その頃は明治測図の地図を持たなかったため疑問であった。ある時、深堀の街道を聞きに深堀神社に行ったとき、有海の森節男氏の方が詳しいと言われ、お宅に伺うと重大な記録を見せられた。
明治29年2月祖父に当る方が長崎に行き、帰りに船が出なかったため「みさき道」を歩いて深堀へ帰った記録を残していた。内容を見てびっくりした。関係するところは僅か400字位の書き付けであるが、「源右エ茶屋」「蚊乃川の飛石」「土井首の浦道」の字が飛び込み、続いて「鳥越の嶮坂は実に足を変はす能はず」とある。深堀に入る最後に鳥越の嶮坂が待ち受けていたのである。

よく聞くと今の記念病院や三菱グランド辺りに100m位の山があり、これを越さないと深堀に入れなかった。末石先は平瀬と同じく海岸は断崖で通れなかった。鳥越とは今も字名がある。1968年(昭和43年)深堀〜香焼間の海面埋め立てが完成し三菱重工が進出。削り取られた山手には新住宅団地ができて、深堀は新旧共同の町となった。
深堀はかって山に囲まれた要塞であった。この山をならす現代の所業に驚くとともに、関寛斎日記以来の「みさき道」の街道を記録した史料が出現した。森氏には大籠に行くのに八幡神社一の鳥居手前に道があった示唆もいただき、また深堀の古地図を貝塚遺跡資料館に掲示しているとの話も聞いた。大変お世話になった方である。

B 明治29年(1896)2月 深堀の「森家記録」と「鳥越」とは

(長崎から深堀までの記録)
(略)高島通船を求るも便者なきを以て出船未定なりと詮方なく陸行に決し(略)午前十時半より出発、曇天大雨正に降らんとの様にて傘なくただ身体一つなり、浪の平三菱炭鉱社前にて微雨次第に其度増さんとするの有様なり、心を紊して再び鉄橋の側なる通舟へ戻さんか果た前進せんと思案しつつ前進し遂に前陳の如く陸行に決し進行す。
朝食僅かに一杯空腹を覚ゆ、源右エ門茶屋に至らば麺包菓子を購はん、亦降雨甚だしくば何処に休まんと其れを恃みに行きしに幸いにも天我を憐れみしか差したる降雨もなく然れ共(略)我をして落胆せしめたり。即ち源右エ門茶屋の戸は皆閉まりて不在なり。
故を以て暫時は近隣に彷徨するも遂に思い切り(略)渡舟に仍らず蚊乃川の飛石を越え土井ノ首の浦道に通り江川に至る、其時の疲労甚だしく鳥越の嶮坂は実に足を変わす能はず杖に倚り頂上に達し深堀東北隅の市街を見るを得たり。当時の喜悦例うるに物なし。円城寺を左にし猫山を過ぎ本町を通り、漸く午前零時半無事帰宅殆ど二時間を要せり、(略)

関寛斎が歩いた文久元年(1861)から35年後、「みさき道」のうち深堀までの道を記した明治29年2月の貴重な史料である。深堀町5丁目森節男氏が祖父の記録として保存されていた。

浪の平から小ヶ倉「源右衛門茶屋」へ行き、茶屋は当時も現存していた。そして鹿尾川はまだ「飛び石」渡りである。あと「土井首の浦道」を通っている。森氏によると親戚の現鶴見台原口病院がこちらにあったらしい。当時は網代先の海岸埋立てが進み、深堀への近道となったのか。
「鳥越」とは、現在の記念病院から三菱グランド一帯である(最近大型商業施設「フレスポ」となっている)。香焼埋立て前は100.2mの山があり、末石先は当時、海岸断崖であった。鳥越を越さないと深堀へ入れなかった。ここが深堀「入口の峠」なのである。
「猫山」は円成寺裏手の山。野良猫が多かった(住職話)。有海に家のある森氏は、近道なので猫山を通ったらしい。

なお、当時の「鳥越」の地形を推測できる写真が、中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の巻頭にあったので転載した。上の写真中央の小山が「鳥越」。次の写真は、小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」昭和53年刊から同じく昔日の姿。赤丸のところに小山が写されている。