史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

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史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

平 幸治氏は芦屋市在住、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者。2014年(平成26年)2月9日(日)付長崎新聞文化欄カルチャーサロンの寄稿記事。深堀地区の景観まちづくりに貴重な資料となるので、筆者の了解を得て再掲する。
詳述は、「肥前国 深堀の歴史」(新装版)教育の項352〜357頁にある。扁額の写真も、同
353頁から。

後の写真は、現深堀小学校の校庭に展示されている旧校門石橋の遺構と、武家屋敷通り樋口家の石塀改修工事の様子(見学会は開催済み。タッちゃんブログが載せていた。)
この項は、本ブログ「深堀陣屋跡の現況(5)」も参照。長崎市の対応は、重大な禍根を残した。  https://misakimichi.com/archives/3922

史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治
豊かな教育史示す額

筆者の母校、長崎市立深堀小(同市深堀町)は長崎市内で最も古い歴史を有する小学校である。同市内ではふつう勝山小(現桜町小)が最古といわれる。たしかに近代的な学制により明治6(1873)年3月に設置された向明学校つまり勝山小が翌7年7月設置の深堀学校より古い。しかし深堀学校はそれ以前の佐賀藩深堀領の郷学校を継承したもので、こういう前史を有する小学校は長崎市内では深堀小のみである。
江戸時代、佐賀藩領であった深堀や諫早、神代にはいずれも藩校に準ずる郷学があった。深堀では既に寛永年間(1624〜1643)には学舎を創設し家臣子弟の教育を行っていたが、幕末ごろには領主邸内に学館を構え校名を羽白館(うはくかん)と称した。羽白は論語の「学而時習之」から習の字を分解したものである。安政7年(1860)に校名を謹申堂(きんしんどう)と改めた。領主鍋島茂精(しげきよ)の要請で佐賀藩儒学者草場佩川(くさばはいせん)が「孟子」の章句から名付けたものである。深堀小には佩川筆「羽白館」と「謹申堂」の扁額(へんがく)が現存する。
謹申堂では漢学・洋学・算法・筆道・習礼および槍剣(そうけん)を教授し文武両道を学ばせた。また維新後には英学教員一名がいて、いち早く英学も教授したことは特筆すべきである。生徒数は通学生約80人、寄宿生20人、生徒からの束脩(そくしゅう)謝礼は不要で生徒のうち15人は官費生であった。春秋2回試験を行い優秀者には賞を与えた。領主茂精も佐賀から帰領するたびに生徒にテストを試み督励したという。また上進者は佐賀の藩校弘道館に遊学させた。
明治維新後は佐賀藩深堀郷学校、長崎県官設移管、深堀義塾に改称と変遷した。さらに政府の学制発布をうけ明治7(1874)年、第五大学区第一中学区深堀学校として継承し現在に至っている。また同19(1886)年、高等小学校の制度発足により野母半島18カ村の共立として第三高等小学校が置かれたのも深堀で、当時の深堀は教育の要地でもあった。
深堀小には前述の扁額の外にも副島種臣筆「深堀学校」、時の文部少輔九鬼成海筆「天任徳」の扁額が遺る。これらは教育史上貴重な文化財と言ってよい。
しかし同校が160年以上の歴史を持つことや、同校に伝来するこの貴重な資料の存在はあまり周知されていないようである。
豊かな歴史を有する深堀は地区内に多数の史跡も残る。こういう生の教材を活用して子どもたちが郷土の歴史に学び、郷土に対する愛着と誇りを育むことは、地域の活性化のためにも極めて大切ではなかろうか。  (六史会会員)