長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

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長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

長崎医学伝習所生「関 寛斎」は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。
原文を解読している陸別町平成6年発行「陸別町史別巻 史料編補稿」などを参考に、現代文を次に掲げるが、字句についてはまだ疑義がある部分があり、正確なものではない。

北海道足寄郡陸別町関寛斎資料館所蔵
関寛斎「長崎在学日記」脇岬紀行部分の抜粋  文久元年(1861)

(4月)三日 日曜日
昨日より佐々木と長嶺氏を案内として相約して三崎行を催す 〇暁を浸して起て晴る明らんとする時微雨忽ち晴る 朝課を終り行囊を作す 佐々木氏を待つ 然れども来らす 故に彼の旅宿を訪ひ未だ朝餐を喫せすと暫時待つにまた雨す 然れども雨を浸して発途す 濱ノ町に至りて止む 南風殊に温熱すること甚し 十町峠にて襯衣を去り単物一枚になる 此の峠頗る嶮東は崎陽を一望し北は港内の諸嶋を観る 且つ峠に路を隔ること一丁許の処に大なる石突起し 峠を抜くこと二十間許 殆ど人工を奪ふ 〇子ヶ倉の入口にて小憩す 右に笠山ヶ岳あり此より加能峠の麓にして良ゝ登る五六町にして平地あり 望遠鏡を用ゆるに最も佳なり 真下は子ヶ倉港内の小嶋眼前に見へ西南は西海緲々たり 〇加能の下り口は海面に張出し望尤も好し 両岸の砲台 或は隠れ或は顕る 両岸は湾あり 張出あり 〇下りて一湾に出て岸上の危石を渡り一の間路を行く 小渚あり一二小魚あり且つ一の烏賊を見る 同行の人直に入り刀を以て切て得たり 自ら携て午飯の料とす
〇迂路して深堀に出つ 入口の峠あり直に下り深堀に至る 小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船数十艘あり 此の処は佐賀の臣深堀某の居なり 戸数百口許 一の家に至り艾餅を喫す 且つ温熱偲忍びざるに由て草鞋をとりて襟を開き汗を去る一快を取る后行厨を開き 且つ鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす 共に手取の烏賊を供す味極めて佳
〇午後発途す 二十丁許にして八幡山峠あり 上りの中央にて異船を見る 望遠鏡を用ゆるに竪に赤白青の旗号あり 日午殊に峠ゆへ 炎熱蒸すが如く 汗を以て単物を濡すに至る 三十許にして蚊焼峠の入り口の茶店にて喫水して汗を拭ふ 〇西北は港内にて其の西岸は遥へ絶へ 高野木嶋 マゴメ嶋 硫黄嶋 高嶋 遥に松嶋の瀬戸(大角力・小角力岩礁図があり、「高さ六七間」としている)見ゆる 之れを相撲の瀬と言ふ 〇四郎ヵ嶋 かみの嶋 右二嶋は佐賀公の砲台にして最も勝るの由 〇蚊焼峠の上三十丁許を長人(ながひ)と云ふ 此の処東西狭くして直に左右を見る 東は天草 嶋原あり遥に其の中間より肥後を見る 〇下りて高濱に至る 此の処漁処なり水際の危岩上通る 凡そ二十丁此の処より三さき迄一里なりと則ち堂山峠なり 此の峠此の道路第一の嶮なり 脚疲れ炎熱蒸すが如く困苦言べからず 下りて直に観音堂あり 淸人の書にて海天活佛の額あり 〇三四丁にして脇津に至り蒟蒻屋に二百銅を出して鏡鯛を求め 鮮肉を喫す頗る妙 郷里を出るの后初めて生鮮の肉を食し総州に在るか如きを覺ふ 処々蝉鳴を聞く 七ッ時より時々雨ならんとす夜に入りて大雨

四日 晴
雨止む 然れども北風強し 炎熱なし 客舎を発し 往昔蒙古の船此の処に破変し化石となり 其の木板材帆柱の形を存すと 然れども潮満ちて見る事能はすと只聞くのみ西向して海辺を通る 此の時蒸汽船を見る 望遠鏡を用ゆるに白に丸紅の旗号あり 長崎港を向く 此の疾きこと我一丁許を行きに四五里をはしる 四五丁にして野母に届る 船場に至り訪ふに 北風強きに由て向風故出船なしと 由て只一望のみにて漁家にて喫茶す此の処二百戸許漁士なり 南西に高山あり 四五年前は絶へす 此の頂にて望鏡を用て異船を見しと云し長崎迄一望し且つよく遠方を見殊に景地なりと 〇五ッ半時発足し 堂山の西を通り高濱に出て 八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し 且つ「ゴロタメシ」と唱ふる麦米豌豆の飯を一椀つつ喫す 其の味頗る妙 尚コッパ飯と唱へる飯とゴロタ飯は此邊の常食の由 ゴッパ飯はさつま芋を片切れ乾し 兼□とし飯に加ふるなりと 〇夫より半里許を行て昨日の道を換ふ 西方は深堀東方長崎道なり 八幡山峠を西に見 八郎ヵ岳を東に見る 其の中間と見ふ 八郎ヶ岳九州第八の岳なりと 此邊第一の高山なり 一農家に憩して新茶を喫し味最好なり 高低の山路を経て昨日と道を同し加能峠に子ヶ倉にて少憩す 十町峠にて新茶を求め 家産と土産の料とす 〇黄昏大浦に着し飢あり 三人共に一麺店にて三椀つつを喫し別る 予は直に浴室に至り 浴后高禅寺に帰塾す 復習已に終るの后なり