昭和7年に脇岬を訪ねた種田山頭火の句
旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が長崎文献社から発行され、きょうの新聞で新刊案内があっている。
「みさき道」街道図に重大な印刷間違いがあり、全冊刷り直されるので、しばらく購入は待っていただきたい。
この本の54,55頁「古刹観音寺の魅力」の中に、青線のとおり種田山頭火の1句のみが簡単に紹介されている。脇岬を訪ねた山頭火「行乞記」の詳しくは、次のとおりであるので、「みさき道」に関係し改めて紹介したい。
種田山頭火は、昭和7年(1932)2月7日に脇岬を海路で訪ねた。「行乞記」の記録は次のとおり。
二月七日 (追加)晴、肥ノ岬(脇岬)へ、発動船、徒歩。……
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、今日の記は別に書く、今日の句としては、
・明けてくる山の灯の消えてゆく
・大海を汲みあげては洗ふ(船中)
・まへにうしろに海見える草で寝そべる
・岩にならんでおべんたうののこりをひろげる
山頭火の4句の独特な解釈は、タッちゃんへお願いしたので、次のブログ記事を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/53831246.html
脇岬の海岸風景は、「大正十一年頃のガラス写真」にあった。この写真は脇岬に間違いないだろう。
二月七日(日)
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、・・・
この日は旧暦の正月2日に当たり、しかも日曜日。前日に初日の出を拝んだ人たちや、「みさき道」の終着点である観音寺へ初詣に出かける人たち、晴着を着た近隣の人たちでにぎやかだったと思う。
晴着については、次の日に現在の諫早市飯盛町でも見ているから、そうだと想像できる。
山頭火は一応、曹洞宗の修行僧。ふだんはくたくたの法衣を着ている。
時には匂っていたことがあるかもしれない(笑)。ハレの日に、そんな山頭火に対して、汚い言葉が投げつけられたのだろう。それが引用文の一節になったとおもう。
ボクの文庫本には、この日の記述に芭蕉の句が書き込んである:
・薦を着て 誰人います 花のはる 元禄3年(其袋「そのふくろ」)に初出。
(こもをきて たれびといます はなのはる)
「乞食のかっこうをしていても、どんな立派な人かもわからないよね〜」の意味。
西行の撰集抄をふまえて膳所(ぜぜ)で詠んだ歳旦句。京・大津の俳人たちからは揶揄された。
これ以降、京・大津の俳人たちとは距離をおき、蕉風が変化していく。
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この日の山頭火の句は4つ:
・明けてくる 山の灯の 消えてゆく
(夜が明けて、長崎市街の街灯が消えていくんだね。なかなかいい句かも)
・大海を 汲みあげては 洗ふ(船中)
(おそらく、松ヶ枝ふ頭あたりから船に乗り込んで、現在の野母漁港まで行った)
・まへにうしろに 海見える 草で寝そべる
(野母漁港から脇岬にある観音寺まで歩いた。おそらく最短コースを取ったはず。でもそれは本来の「みさき道」とはズレている。途中、道塚があるが崖下の道は、少しでも波が高くなれば洗われて通れない状態だったと思われる。無事通過して、画像の海水浴場あたりでホッと一息したのではないだろうか。ひょっとしたら、このときに怪我・出血でもして、そのままの格好で拝登したから、まわりからののしられたのかも知れない)
・岩にならんで おべんたうの のこりをひろげる
(場所は特定できないが、十返花は同行していたはず、それと敦之も可能性あり)