長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 251頁 ⅤⅠ−A−29 南部の墓地
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
プロセイン・ドイツが観た幕末日本
251頁 ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第5冊、図版29) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。
〔図版解説〕 29 長崎 町の南部にある墓地
ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、先の図よりさらに奥の部分にあたる。麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている。境内には、鐘楼、湯殿、それに僧侶の住宅がある。屋根は萱葺きのものもあるが、多くは灰色の瓦葺きで、それらはところどころ模様をつけたように白いモルタルで接合されている。
古木のあるものは、蔦をいっぱい身にまとい、まるで甲羅をかぶっているようである。段丘の石垣や墓石もすっかり蔦におおわれている。墓の中で新しいものは、風雨をさけるため木の屋根をつけている。— 図の左には楠が立っている。手前右の椰子科の植物は棕櫚である。
■ 確認結果
日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)
1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。
251頁の「ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地」はフォトリトグラフ。「ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、… 麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている」と解説している。
これは、長崎市鍛冶屋町の「大音寺墓地」を描いていると考えられる。右側中間の尾根は西小島の「大徳寺」あたりの丘となり、長崎港の一部が見え、対岸の山は特徴ある「天門峰」だろう。
写真の右下の大屋根が「大音寺」、中央左の大屋根が隣りの寺「大光寺」とすると、位置関係は合う。寺院の付属建物は変わり、墓地も改築されていて、なかなか同じような景色を写せない。
参考として掲げるのは、江崎べっ甲店所蔵の上野彦馬初期撮影写真「長崎の町から長崎港方面を望む」。長崎大学付属図書館関係者が解説しているが、撮影場所は間違いである。
これが大音寺の隣り、「大光寺」墓地から写した場合の景色となるので、対比をお願いしたい。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2822