長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 122P

212 — 寺町晧台寺後山の墓地 明治10年(1877)頃撮影。彦馬の墓所でもある。

目録番号:767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。

■ 確認結果

撮影された長崎の墓地が、「写真の開祖 上野彦馬」では、寺町「晧台寺後山の墓地」、ベアトコレクションでは、夫婦川町「春徳寺墓地」と解説が異なっており、現地調査した。
双方が見落としているのは、目録番号:767「長崎の墓地(1)」を超高精細画像で見るとわかるが、墓地背後に大きな谷間の集落があり、上まで耕された山の稜線がうっすらと写っている。
どの山だろうか。確認が必要ではないか。
現地へ行っても、どっちもどっち。はっきりした確証が得られない。カメラがこのように立てたか、墓地の地形も問題となる。

私の感じでは、背後の稜線から鍛冶屋町「大光寺墓地」が、最も考えられる(写真6)。上野彦馬はベアトと大光寺を訪ねた写真が残る。このあたりから小島養生所方面も写している。
筑後町「福済寺墓地」は、少し違うようである(写真7)。
古写真左下に写る地蔵の列の道や、墓碑で明らかに読める「足巌良正居士」「圓徳院殿興岳永隆居士」が残っていないだろうか。撮影場所となった墓地の研究をお願いしたい。
ベアト撮影では、別の次の写真を長崎蛍茶屋の墓地と確認している。
https://misakimichi.com/archives/2829