「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

イメージ 1

イメージ 2

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。寺井房夫編 東京 福田はる刊「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」平成13年3月発行。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行111〜112頁ですでに紹介済み。写真が大山祗神社鳥居前の鹿尾川底に残る飛び石跡?と、長崎市立土井首中学校の前庭石。どの石かはもう不明。

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」 19〜20頁
寺井房夫編 東京 福田はる刊 平成13年3月発行

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」
大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。
『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川) 等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

(注) 土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。国土地理院旧版地図明治34年測図も「渡渉所」。
上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片と石は、まだ川底に平らな一部が残っている。