毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

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毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

教会群や産業遺産群で「世界遺産」登録を目指す長崎。けれど暮らしの周囲を見渡せば、未来に残したいものはそこここにいっぱい潜んでいる…と、毎日新聞長崎地方版の正月紙面から、シリーズ企画「私家版・ながさき遺産」がはじまった。
まだ記者の観点によるものが多いが、2012年1月13日付は次のとおり、「7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け”」であった、

銀屋町の「ししとき川」には、元眼鏡店シンボルとしか言えないこの通称「裏眼鏡橋」(写真1)から、20mも離れないすぐ上流の銀屋町公民館角にあるレンガ造アーチ式石橋「稲荷橋」?(写真2)の存在に気付かなかったのか、「えごばた」の説明もない。
https://misakimichi.com/archives/810
明治21年刊行の長崎年表によると、中島川石橋群に対応する「鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋があり」、昔は一目におさまったのではないかと、「長崎手帖」編集者故田栗杢作氏がNo.13で「茶のみ話」に記している。

一 目 七 橋
これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。(西古川町 金物店 岩永関夫氏)

桜町・栄町の「地獄川」にも、同じようなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真3,4)現存し、本ブログ記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/787
長崎大学病院の近辺にも、小さなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真5,6)残る。貴重な被爆遺構と思われる。 https://misakimichi.com/archives/613
特に前記の3橋は、毎日新聞長崎支局(魚の町)のすぐ近く。現地を訪ね地元の記憶を聞き、市橋梁台帳等で架橋いきさつ、年代などを、ぜひ解明してほしい。
「私家版・ながさき遺産」の企画は、読者があまり知らない、もう少し長崎の深い歴史を感じさせる内容の記事にお願いしたい。本ブログは外にも、長崎の珍しい遺産の情報を多く載せている。

私家版・ながさき遺産:/7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け” /長崎

日本最古のアーチ形石橋として、長崎を代表する観光スポットに数えられる国重要文化財「眼鏡橋」(長崎市)。橋が架かる中島川から約200メートルの距離に、もう一つの眼鏡橋がある。

通称「裏眼鏡橋」。同市鍛冶屋町から繁華街へ続く静かな路地を歩くと、大きな眼鏡が突然視界に入ってくる。“本家”はアーチ形の橋脚が川面に反射して円を描くが、“裏”は橋の欄干そのものが眼鏡の形。うっすら赤色を帯びていて、色あせたそのフレームは長い年月を感じさせる。それもそのはず。以前この場所で開業していた眼鏡店「コクラヤ2号店」の名残りで、同店の元代表・高浪藤夫さん(79)が約40年前、店の裏手を流れる「ししとき川」に架けたものだ。

「ただでさえ静かな路地。店の目印になるように、商売繁盛の願いを込めました」と懐かしそうに話す高浪さん。長さ約1・5メートル、幅約1メートルの眼鏡ができると裏口にもかかわらず、多くの人が橋を渡って来店したという。10年ほどでコクラヤが同市万屋町に移転すると、後には仏具店が入店。82(昭和57)年に起きた長崎大水害では、本家を一部崩壊させた水の威力にも耐え抜いて無事だった。

テレビやインターネットでも紹介され、カメラを手に訪れる観光客も少なくない。今、店の裏口として使われることはなくなったが、市内に5店舗を構えるコクラヤで働く人々の隠れたパワースポットにもなっている。
「400年以上の歴史がある本家・眼鏡橋に負けないように、これからも頑張らんば」。小川に「架けた」眼鏡に、商売繁盛を「懸けた」高浪さん。長崎を代表する地元企業の原点遺産は、御利益満点。あなたも願を「かけて」みる?【梅田啓祐】