新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

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新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

平成17および18年に外海・三和・伊王島・野母崎・香焼・高島および琴海の7町が長崎市に合併した。長崎伝習所「新長崎市の史跡探訪塾」が研究成果として、平成20年3月発行した報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」三和エリア10頁に「みさき道概略図」がある。

同解説は次のとおり。また、33頁まとめには「野母の観音寺への参道である「みさき道」は軍事、密輸の道ともいわれ、複数の道があるようで遠近、平阻にかかわりなく、当時は天領を行くか深堀領を通るかと選択しながら通ったのではないかと思ったりする」とある。

みさき道
みさき道は深堀道などとも呼ばれたが、野母崎町脇岬の観音寺に参詣する道として整備された。江戸時代は観音信仰が盛んで長崎の人達の信仰を集めていた。
コースは長崎から脇岬の観音寺までの7里(約28km)の距離で、大体1泊2日の行程であった。道の分岐点の要所には天明4年(1784)に長崎の今魚町が50本の道標を立てた。
その後立て替えられたものもあるが、現在は10本程が残り、当地域にも3本が現存している。
またこの道は野母権現山の遠見番所や狼煙台、港口にあった台場へ通じる重要な軍事道路でもあった。

この報告書を、きのう長崎市立図書館で初めて見た。平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点はすでに指摘している。  https://misakimichi.com/archives/1585
まったく同じような問題点を含み、この報告書もそのまま発行されている。「みさき道概略図」はどの道を説明しているのか意味がわからない。

「みさき道」でみんなが知りたいのは、観音信仰が盛んだった江戸時代に、長崎市中から一般町人が歩いた、道塚が残るふつうの正しいルートであろう。いろいろ史料・資料の手持ちがある。
少しは当会研究レポート「江戸期のみさき道」や本ブログを参考とし、現地を調査研究してほしい。  https://misakimichi.com/archives/3035
「みさき道」の道塚は、現在12本残り、三和地域に4本ある。「みさき道概略図」に対比して、検証の1資料として、明治34年測図国土地理院旧版地図(ズーム拡大)のみ掲げる。

道のない所に勝手に道を作られては困る。長崎学としながらこのような内容の解説書を、長崎歴史文化博物館や長崎市長崎伝習所が発行するのは、公費支出上でも問題があろう。「三和町郷土誌」382頁の地図もおかしい。
迷惑しているのは、さまざまな人に及んでいる。三和行政センターも地元だから、考えてほしい。  http://yamanosoyo.exblog.jp/d2010-02-24