長与町の主な史跡など (3)  斉藤郷・岡郷

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長与町の主な史跡など (3)  斉藤郷・岡郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 3   1 長畠山法妙寺(斉藤郷)

長与川河口付近、時津へ行く国道207号沿いにある。斉藤郷「寺の下」バス停がある。
年こしの かねの音ひぴく 法妙寺
法妙寺は、一六二七年に大村純信により建てられました。法妙寺が建てられるおよそ六十年前は、大村純忠によりキリスト教が広まっていましたが、その後禁止されるようになり、キリスト教徒ではない証明と、人々に仏教を広めるために法妙寺は、建てられました。
法妙寺本堂に祭られているのは加藤清正像で、大村純忠の子、喜前(よしあき)と互いに助け合った縁があるそうです。

写真  4〜 5   2 唾飲(つのみ)古城城跡(斉藤郷)

斉藤郷法妙寺の裏山、標高百十数メートルの山頂にあり、往時をしのばせる土塁や石垣がわずかに残っている。史跡説明板は法妙寺入口参道にある。
うめぽしの 声で落とした 唾飲城
斉藤郷法妙寺の裏山にあったとされる唾飲城の名前の由来は、今から約四百年ぐらい前(一五八六)、長与村の地頭長与太郎右衛門純−が、大村純忠と戦ったときのこと。浜城に立てこもった純一を攻める大村勢は、大変な喉の乾きに見舞われていました。
そのとき、攻め手の中に「梅干し、梅干し」と叫ぶ者がいて、みんな生唾を飲み込みながら浜城を攻め落としたことに由来します

写真  6〜 8   3 鶴乃港の煙突(斉藤郷)

長与川河口、舟津橋の少し上流左岸にある。造り酒屋は現在「広瀬酒屋」となっている。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2850
えんとつが 大きい酒屋 鶴の港
広瀬酒店は、江戸時代から続いた造り酒屋です。広瀬酒店の酒は、長与の山の方から水を引いて裏の大きなたるの中にためておき、それを使ってつくっていました。
戦後、広瀬酒店で酒をつ<ることはな<なりましたが、今も長与川の川ばた(斉藤郷)に、大さな赤いレンガの煙突が見えます。

写真  9〜11   4 毘沙門天王(岡郷)

舟津橋先から「琴の尾岳遊歩道」(車道)があり、1kmほど登ったところにある。
(長与町郷土誌 上巻 219〜221頁)
岡郷佐敷川内にある。安永9年(1780)6月再建の記録があるが、それ以前の沿革は判明しない。毘沙門天は一名多門天ともよばれ、北方を守護し仏法に帰依した者を守る武神で、その霊力によって病気平癒や、ものごとを良く治めると信じられている神様で、日本では七福神の一つとして財宝富貴の神としても知られている。
「殿様道」と呼ばれる七曲がりの旧街道の急坂を登ると、古い鳥居と大・小の記念碑がある。…拝殿の奥の神殿の部分は岩窟となっている。『郷村記』には「石祠、岩窟の中にあり。神体立像石に切りつけ且岩座に鬼形切りつけ彩色あり」とあるが、この鬼形は今では見当たらない。… 

写真 12〜14   5 鍋石様(岡郷)

舟津橋先から「琴の尾岳遊歩道」(車道)があり、毘沙門天王を過ぎ、さらに900mほど登ると、「鍋石公園」分岐道がある。「古なべいしみち」と刻む石は毘沙門天王入口すぐ先の崖にあった。
ぬったなら できもの治す 鍋石の水
鍋石さまとは、岡郷側から扇塚公園へ行くと中の鍋石公園にある、鍋のような形の大石のことです。いつも水がたまっています。昔、佐敷川内のサヨという女の子の体中に赤いぶつぶつができてしまったそうです。近所のおばあさんにすすめられて、鍋石さまにいつもたまっていた水を体中にぬりました。すると、二週間ほどできれいに治ったそうです。
それから、鍋石さまの水は皮ふ病にきくと言われるようになりました。できものが治ったらおとうふ十二丁をお供えするという言い伝えがあります。