昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑  長崎市向町淡島神社境内

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昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑  長崎市向町淡島神社境内

長崎市式見地区、向町の淡島神社は、蝶ヶ崎トンネルを出たすぐ右手。上の境内まで車が入る。戦時下の痛ましい海難事故で、死亡・行方不明者実に273人を出した「近海丸殉難者之碑」がある。ほとんどが式見、三重地元の人である。
近海丸事故は、式見郷土史170頁にもあるが、簡略なため現地碑文を次に記す。像の制作者は、山﨑和國氏。風頭公園の坂本龍馬像で有名である。

近海丸遭難50周年忌追悼の記

太平洋戦争熾烈な昭和19年12月24日午後1時頃、長崎交通船株式会社の連絡船近海丸(26t)が当時、西彼杵郡福田村小浦沖合いに差しかかった際、激浪を受けて転覆沈没した。近海丸は三重式見から長崎市大波止に帰航中、乗客、乗組員は疎開学童婦女老人らを含め計338人。戦争故に殊のほか食糧欠乏の時局下、乗客の殆どは食糧買い出しで乗船していた。家族肉親のため幾許かの食糧を背負い、夕餉の楽しさに心はずませ、ひとときの夢を抱いていたであろう。まして歳末のこと、正月を迎える喜びを分かち合う御心情の程は察しても、なお余りある。しかるに夢は一瞬にして消えた。

嗚悲しいかな。救助者僅かに65人。死亡、行方不明者は実に273人にものぼった。長崎水上署、稲佐署、地元消防団の懸命の救助活動も遂に及ばない悪天候下のこと、まさに痛恨の極みというべき一大海難事故ではあった。原因は激浪のなかで定員の4倍もの乗客が背負い荷ともども右舷に傾いて均衡を失ったためとわかった。明けて昭和20年8月15日、戦争は終り、平和な時代を迎えて、現在に至っている。あの憎むべき戦争なかりせば碑名の遭難者の犠牲はあり得べきものではなかった。故に50周年忌に際し人命の尊さに思いを致しつつ天界の御霊に追悼の意を表し、心からなる御冥福を祈念するものである。
安らかにねむれ亡き人よ 波しずかなれとこしえに
平成6年12月24日   建立発起人  渡辺宗人 吉原源次 門口政治 山口 寛

(2014年12月5日 追 記)  この項は、本ブログ次の記事も参照。
防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事
https://misakimichi.com/archives/4302