長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場
〔画像解説〕
鶏卵紙一枚もので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名で、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3230(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影と思われる。人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。
■ 確認結果
朝日新聞きょう2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島
近代化支えた立役者”は、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品である。本ブログでは2009年2月紹介済。 https://misakimichi.com/archives/1619
きょうの朝日新聞の解説は、取り立てて問題にすることはない。要望としては、冒頭の文が
「1872年7月、内田九一が撮影した「高嶋」(現在の長崎市・高島)の石炭積み出し風景です」とあまりに簡略されていること。データベースの画像解説にある「明治5年(1872)6月(新暦では7月)、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影した…」という背景説明は必要と思われる。
後段の「内田九一は官営化に備え、政府から現地撮影を依頼されたようです」も、そのようなことは考えられないことはないが、根拠があるのだろうか。
なお、この写真は内田九一の作品に間違いないと思われる。2010年1月東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に内田写真株式会社所蔵の内田九一が撮影した写真として展示されている.
展示作品は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html