長崎の古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 657 風頭山(1)     関連作品  目録番号:1195 風頭山(2)
〔画像解説〕
横浜写真の50枚組(小川一真製作と思われる)の小型アルバムに収載され、鉛筆書きでNagasakiとキャプションがある。長崎旧市街の東部に位置する風頭山の物見遊山の情景。山の麓には長崎有数の寺院が並び、中腹から頂上付近までそれらの墓地が続いている。明治以前にはこの山に清遊を試みる者も多かった。この山頂から長崎港を望んだ写真も多い。この場所は現在でも残る風頭山頂横の古い石切り場の跡であり、切り立った岩はそのためである。切り出された石は墓石に使われた。和服を来た男女31人が思い思いのポーズで写されているが、中には子供も数人いる。服装は当時の普段着として興味深いが、16人ほどの男性成人のうち5人が丁髷を結い、残りの7人は散切り頭であり、女性には和傘と蝙蝠傘を持つものがあり明治初期の風俗をよくうかがわせている。左手背後の市街は立山方面で、海の奥に浦上新田の縁が見える。明治
10年代頃か。

■ 確認結果

朝日新聞のきのう2010年(平成22年)2月18日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”風頭山から艦隊見物 和洋折衷の物見遊山”。
この古写真は、データベース上の目録番号: 657「風頭山(1)」の作品である。関連作品の目録番号:1195「風頭山(2)」も同じ写真。画像解説は上記のとおりで、これまで撮影者は未詳とされていた。この項と現地写真は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1912

ところが、きのうの朝日新聞の解説文。「1872年7月、内田九一が撮影した。明治天皇の艦隊を風頭から見物する長崎の人々です。…」と変わった。
内田九一は、明治天皇の巡幸に随行した写真家である。巡幸で撮影したとされる写真は、次の研究紀要に報告がある。目録番号: 657「風頭山(1)」は、この巡幸写真にない作品である。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

解説が変わったいきさつは、次のとおり。HP「大阪天満宮表参道<祭屋梅の助>のぼてふり日記」の3頁にある。
http://ameblo.jp/maturiya-umenosuke

2010-01-29 【復刻「天満人」Web版(14)】内田九一が撮った風頭山の行楽風景
風頭山の行楽風景
日本写真界のパイオニアの一人として名を馳せた伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖として、明治4年天満に創業した内田写真株式会社の歴史は、日本の「写真の歴史」でもありました。
下の写真は内田九一が明治5年に明治天皇の西国巡行に随行した折に撮った長崎・風頭山(かざがしらやま)の行楽風景です。天皇が長崎に入られたのは6月16日。九一には名所旧跡を写真に収めて外国に紹介するという使命が託されていました。写真の中の人物はすべてエキストラで、九一は一人ひとりにさりげないポーズをとらせました。ハイカラな恰好をした人がいるのは、さすが長崎です。
長崎の市街地が一望できる風頭山は、山頂で長崎名物の凧(はた)上げなども行われ、昔から多くの行楽客で賑わいました。山の中腹には、坂本龍馬が設立した日本最初のカンパニー「亀山社中」がありました。…

長崎の巡幸滞在は3日ほど。内田九一は風頭山へ出かけ、港の艦隊は写さず(写しているかも知れない)、エキストラによる長崎の有名な行楽地「風頭山の行楽風景」を撮影に行ったというのが、真相のようである。どおりで人物は、港の見物風景となっていない。
ニックネーム「祭屋梅の助」HP氏のプロフィールも面白い。大阪生まれ。76年、写植業を開業。業種の衰退により廃業し、以後、大阪・天満を中心に取材活動を続ける。
雑誌「天満人」の編集人から「ぼてふり」に加齢(?)なる転身!大阪天満宮の表参道で名物「ぼてふりまんじゅう」を売ってます。天秤を肩に、まんじゅうを売りながら天満のまちも案内する。

内田九一は、弘化元年(1844)長崎生まれ、長崎でオランダ人から写真術を修得し、慶応元年には大阪に写真館を開業し、翌年には横浜と江戸に開業した。初めて明治天皇を写真に収めた。写真家の第一人者として活躍、31歳で肺結核のため死去した。
内田写真館はその後も受け継がれ、現在も大阪市北区天神橋に内田写真株式会社(創業 明治4年5月)は健在している。

ぼてふり日記に「伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖」とあり、最近の2010-01-29記事である。内田写真株式会社に「風頭山の行楽風景」の写真原板が保存されていて、内田九一作品と判明したものと思われる。
朝日新聞の記事は、このようなエピソードを紹介してほしい。データベースは以前として前のまま。変更はすぐ対応してもらいたい。

なお、朝日新聞の先週2010年2月11日付記事”明治天皇巡幸の長崎 豊かな街 強烈な歓迎”に載った現在の万才町、高木清右衛門邸から撮影とされる「市街地パノラマ(1)〜(3)」の作品も、昨年8月に長崎地方法務局屋上から撮影済みだったので、現在の写真(クリック拡大)を再び紹介する。この項の記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1927

参考のため追加した古写真は、同じ風頭山を写した内田九一の別作品「長崎港」。長崎市立博物館蔵。長崎文献社「続・アルバム長崎百年」昭和58年刊11頁に掲載があった。解説は次のとおり。

明治の初め頃東京で評判の内田九一(うちだ・くいち)という写真家がいた。宮内省御用係で、明治天皇が長崎御巡行の際は、お付きカメラマンとして長崎にも来たことがある。といっても、もともと、上野彦馬の門弟で長崎出身。いうところの、シュツランのほまれ、である。この人が、「全国名所風景」というアルバムを製作して日本中の美しい風景、珍しい眺めを撮影している中に「長崎港」と題する、この一枚がある。全国名所に選んだほどだから、そのころの港は、さぞ、きれいだったろう。
しかし、九一は、港は単なるバックとして扱い、風頭山の中腹に何かの集団らしいさまざまの服装の男女の一群を集め、むしろ、この”人間たち”にポイントを置いたような被写体構成をやっている。この写真は実物は、古ぼけていたが、九一の写真感覚は当時としては、すごくフレッシュだったといえる。その意味で敢えて、ここに掲げた。(市博蔵)