五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋 五島市池田町・吉田町
石田城跡五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋。五島高校第2校門内のアーチ式石橋「石田城本丸眼鏡橋」や国道沿い堀端前「蹴出門」の桁石橋は、すでに以前紹介している。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。風景・史跡の項も参照。
「石田城跡五島氏庭園」は、 https://misakimichi.com/archives/2050
「明星院」は、 https://misakimichi.com/archives/2033
写真 1〜 8 第 k-052 番 心字が池の石橋 五島市池田町石田城内五島氏邸
安政5(1858)年に庭園が造られたとあるので、その時の架橋であろう。蹴出門の石橋を渡って石垣に沿って場内に入り左手に門構えが見える。三十代盛成公の隠殿として城内に築かれた石田邸。この邸内に心字が池と呼ばれる林泉式の庭園が有名。この庭園は安政5年、京都の僧善章が金閣寺の丸池を模して造られたと言う。(08/07/2008)
忍び通路を見てから庭園に向う。大きな楠木には諫早の者は驚かないが、大谷渡やビロウ等が茂る庭園は趣が違う。正面左手に見えるのが一番上の写真の石橋。なんでも盛成公が亀が好きとかで亀の形を模したという築島。左手の石橋が尾に成って右手の上を向いた石が頭のようだ。
反時計回りに庭園を廻る。さっそく小さな橋を渡って左手には一番上の築島の対を成す築島がある。ここのも同様の石橋が架かっている。
母屋の対岸に見えていた石塔は、朝鮮の役の際に第二十代当主純玄公が加藤清正と共に戦った際に持ち帰ったと記されているが、純玄公は文禄の役に小西勢の一番隊に兵700名で参戦し陣中で疱瘡に罹り亡くなって酒樽に浸されて帰国したはずである。この時に持ち帰ったとしても持ち帰ったのは陣中で第二十一代当主となった玄雅公であったはず。
もしくは慶長の役の出陣の時であったかもしれない。どちらにしても私の見る限り韓国で見かける五重の塔に酷似していることは確かだ。
もう少し進むと池の排水を行う水路にも橋と言うか暗渠がある。まぁこれも石橋と言えるかもしれない。その先では最初に紹介した築島に到着する。
写真 9〜 14 第 k-051 番 明星院の石橋 五島市吉田町
文化7年(1810)3月架橋とある。
弘法大師空海が唐での修業の後、福江島に立ち寄り大宝寺や此処、明星院の開基に関わった事は有名だが、この明星院に石橋が架かっていることは案外紹介されていない。
境内の案内板には「泮池(ばんち)、池の中央に橋をかけ池を半分にした形式で中国の造園思想から生まれ日本では平安鎌倉時代の庭園形式で橋を渡れば、そこは仏の世界を現している」と書かれ、橋の架橋に関しては「奉寄進、御倉奉行、杉 東蔵、大浜清蔵、築瀬友八、二十一世大恩代、文化七年庚午三月」と記されていた。(07/31/2008)