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千々石川遡行  昭和46年8月の記録

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千々石川遡行  昭和46年8月の記録

県内の山も、年ごとにあちこちで伐採が進み、林道が奥深く入るにつれ、沢歩きの楽しめる川が少なくなった。登る当人も、年とともに身体は無精になり、足は遠のく一方で、以前は多良や轟の渓谷、西彼半島の雪の浦川、河通川、近くでも干々川、鹿尾川など、結構1日を楽しく過ごせたのを、今はなつかしく思いうかべるのみである。

ここに紹介する千々石川は、裏雲仙田代原から千々石にそそぐ。雲仙山系にあって唯一の沢歩きの対象となる川であろう。ふだんは水量がほとんどなく、大雨の後しか出かけられないが、小規模ながら渓谷としての変化があり、田代原へのハイキングの1ルートとして、もっと見なおされてよいと思う。沢の概念をあらためて図で紹介してみたい。

長崎を8時頃のバスで発つ。橘神社前で下車。田代原への車道に入り、20分ほど行った三叉路で左へ野取部落への道をとる。橋を渡って、山ふところ深くコンクリートの大きな堤防が見えるあたりで、真直ぐな車道は切れ、山道に入る。ここまで約1時間である。木立の山道を10分も行くと、すぐ仙落の滝の直下に出る。この下流にも滝はあるが、無理して入るほどでもない。仙落の滝(F2)は、落差約30m。小気味よく滝水がしだれ、滝つぼも広く、よい昼食地点となろう。滝は右に大きく高巻きして山道があり、上部には取水のパイプが設けられている。

これからしばらく行くと崖が両側にせばまった廊下状のところがあり、水深は深く、水が多いときはスタンスを取りにくい。渡れないときは左にやぶ道がある。このあたりから沢は大小のゴロ石が続き、高度をかせぎながら、F3にひょっこり出る。途中は取水のパイプが数本敷かれ、「野取取水栓」の標柱がある。F3も落差約30m。この滝は中央右より、ブッシュの中を登れるが、右のガレ場の高巻きの方が無難であろう。この上に立つと、ものすごく高度を感じるのである。吾妻の水量の多い支沢を分岐すると、水はほとんど伏流となり、涸れた河原のゴロ石となり、ほどなく薄暗い木立におおわれたコンクリート堤防に出る。沢の中間地点で、仙落の滝から約1時間のところ。そろそろ疲れを覚えるころである。

このあと谷はややせばまり、湯つぼ状の直径5mくらいの円形淵に出る。水浴でもしたい見事な淵である。上部は3段で小滝が続く。捨て縄、ハーケンのある岩面を左右につたい、上に出る。
ここから沢の本流は右にカーブし、すぐF5、F6に出る。このあたりがこの沢の核心である。滝は落差はないが実に美しい。樹々の陰濃く、静かな清流ときれいな淵を見せる。惜しむらくは、水量が常にない。が、落ち葉が水に浮かんでゆるやかに滝面を流れ、たいへん風情がある。F6を「落葉の滝」と自分で命名した由縁である。F5は約10m。F6は約8m。

沢もこれまでで、上部は平坦なゴロ石となり、振りかえると後に鉢巻山、左右に吾妻岳、九千部岳がやっと近くに見える。沢をそのままつめても、F6から右手山道を登って車道に出ても、田代原まではあと40分の行程である。千々石川遡行の総所要時間は3時間から4時間。田代原には午後3時に着こう。
帰りは、道はやや荒れているが、吾妻岳のふもとの山道をたどり(この道は後年、九州自然歩道として整備されている)、亀石神社から林道を千々石に下ると、橘湾と愛野展望台のあたりの景色がよい。下りは約2時間。
(昭和49年12月発行 部報「よちよち」N0.16に掲載。写真は「仙落の滝」)

轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

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轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

妙にウマが合った青春多感な仲間3人がいた。釣りや山に、そして鉄砲打ちにも明け暮れ、普段はまっとうな恋愛ができないため、酒びたりの毎日だった。
1人は並大抵でない。船酔いするのに男女群島まで行き、毎月の給料は、釣具屋の借金払いに消えた。彼に感化され、海・池・川釣りをすることとなった。
遠征でよく五島に行き、当時はよく釣れ、居酒屋に卸したこともある。池は川原大池が巨大ヘラブナが釣れるということで、注目を浴びていた頃である。釣り大会があって優勝した。

3人が特に力を入れたのは、天然種はもう絶滅したと言われる長崎県内の河川の、渓流魚「ヤマメ」探しである。多良山系のほとんどの川を上流から下流まで探したが、あまり確認できなかった。釣れたのは、台風で壊わされた養殖池から逃げ出したと思われるニジマス。轟の滝下流では、ときたま大ニジマスが釣れ、結構楽しんだ。佐賀県鹿島側に行くと、ヤマメの小さいのは釣れた。

そこで一念発起。ヤマメの生息環境となる水温・水量と、人が入渓しないということで、北高高来町(現諫早市)境川、轟渓谷のある谷を選定し、自分たちの手でヤマメの稚魚を放流することとした。当時、島原市が4年前からヤマメ養殖を試験事業として行なっており、昭和51年6月11日、稚魚5kg(1,200尾位)を同市から購入してこの谷に放流し、生育を試してみることとした。
当時の放流の様子を伝えた読売新聞の記事は上記のとおりで、島原市役所近藤氏が長崎県生物学会誌No.13(1977)にも報告を書かれている。

その2年後も、佐賀県鹿島の養殖場から同量ぐらいの稚魚を購入して放流した。世代交代が進み、見事にこの谷に定着。渕に潜って観察すると、潜水艦のような魚影が数多く悠々と泳いでいた。昭和56年3月15日、この谷で最大となる体長34cm,320gのヤマメが釣れ、魚拓をとっている。

ヤマメは九州山地宮崎などへ出掛けても、そうやすやすと釣れるものでない。帰りにこの谷に寄って、ウサばらしをした。かえって長崎県内のこの谷が釣れるのである。7〜8年間は、私たちだけの隠れた釣り場となって、渓流釣りを楽しんだ。
やがてどうして知られたのか、福岡などの釣り人の姿を見るようになり、魚はこの谷から完全に絶えた。私たちの足も、自然とこの谷から遠のいていった。

最近、新聞・テレビに地元境川管理組合の「釣り名人」が登場し、いろいろ語っておられる。その方も知らないと思われる境川の、まだ奥の谷のまだ昔のこととなる。
6月の時期、下流の香田水産あたりは、蛍が川面から湧くように発生し、一大群舞する。テレビでこの間、ここを「蛍の名所」と中継していたが、その光景は前から見て知っていた 香田水産からはニジマスの小さいのを買い、轟の滝上流の普通の人は行けないある滝つぼに放し、半年ほどしてソーセージを餌に釣ったこともある。いずれも、もう30年くらい前の話である。 

「みさき道」の道塚 ① 十人町の石段脇

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上部はすっかり磨耗していて、刻字不明。地元の話では変体仮名で「みさき道」と刻まれていたという。
館内町唐人屋敷近く。太閤寿司裏手の右石段登り口にある。
平成7年「さるく博」のため、説明板が取り付けられた。

[説明板文面] みさき道(御崎道)の道塚
十人町から南へ7里(28km)先の野母崎の観音寺までの街道で、観音寺を参詣するため整備された。この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた。

(川上氏HPから修正作成)

「みさき道」の道塚 ③ 新小が倉高比良造園内

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正面「御崎道」 左側面「文政六年葵未二月」 右側面「今魚町」 (1823年)
ダイヤランド入口相光石油裏 高比良造園内の電柱支柱根元にある。

[近くにある力士墓と源右衛門茶屋跡の碑文]
この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」のものである。
往時この界隈は、御崎道の主要路で岬の「観音寺」参りの商人や深堀武士達の往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる。
近年団地開発が進み付近の様子もすっかり変りこの碑の存在が忘れられ、おろそかにされてきた経過もあったが、父茶屋仙次郎の遺志をくみ、土地造成を機会にこの地に再建立したものである。
平成四年七月吉日      再建者 茶 屋 義 行   筆者 園 田 義 光 

(川上氏HPから修正作成)