熊本県」タグアーカイブ

網 引 橋  宇土市網引町 ( 熊本県 )

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網 引 橋  宇土市網引町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。JR三角線住吉駅から県道58号に入り、網津川沿いに行く。網引町へ入って現在の橋の脇に架かっている。

№1,074  網引橋
宇土市網引町
市指定文化財
網津川
橋長:8.7m  橋幅:3.63m  径間:7.65m  拱矢:2.45m  環厚:45cm
馬立橋より150m南に架かっています。

馬門石石切場・跡  宇土市網津町 ( 熊本県 )

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馬門石石切場・跡  宇土市網津町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR三角線住吉駅から県道58号に入り、網津川沿いに行く。集落の中に「馬門石石切場跡」の案内標識があり、大歳神社前を通って行く。その先の分岐は、右の谷間の方へ。

馬門石石切場・跡 まかど
宇土市 石切場(馬門石) (3ヶ所) 5C〜昭和期 市教委 昭和30年代まで使われていたが、近世の状態がよく残る 宇土市周辺で使われてきた特異な朱色の阿蘇溶結凝灰岩 2 B

宇土市デジタルミュージアムによる説明は、次のとおり。

馬門石石切場跡  まかどいしいしきりばあと
区分:
解説:
宇土市網津町・網引町は,中世には利用が減少するものの,古墳時代から昭和に至るまで連綿と採掘されてきた馬門石(阿蘇溶結疑灰岩)の産地です。なかでも,ピンク色の色調を帯びたものに特徴があり,古墳時代には瀬戸内から畿内にかけての特に有力な権力者の棺に用いられたほか,江戸時代には藩の御用石となり,改修された轟泉水道の石製の樋管などに使われました。
馬門石切丁場跡は網津川左岸に所在しています。灰黒色とピンク色の馬門石が主要な色調であり,一部にベージュ色やオレンジ色の露頭も存在します。
野添石切丁場跡は網津川右岸の野添山南側から西側山麓に位置します。灰黒色と灰白色の馬門石も野添山南西側山麓を中心に分布します。
清辻石切丁場跡は北側の清辻丁場跡と這坂(はさか)丁場跡に分けられます。灰黒色や灰白色の馬門石が主体ですが,一部にピンク色の馬門石も分布します。
これらの石切丁場をまとめて馬門石石切場跡といいます。
関連:  馬門石石切場跡出土品・紙芝居「大王のひつぎ」
所在地: 宇土市網引町,網津町

歳の神のクスノキ  宇土市網津町 ( 熊本県 )

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歳の神のクスノキ  宇土市網津町

宇土市デジタルミュージアムによる説明は、次のとおり。JR三角線住吉駅から県道58号により網津川沿いに行く。集落の中に「馬門石石切場」への案内標識がある。この道へ入るすぐ大歳神社がある。

歳の神の楠

区分: 宇土市指定天然記念物(昭和54.5.9)
解説:
宇土市網津町馬門の大歳神社にあるクスノキです。
幹囲は14メートルにも及び,宇土市の樹木の中では最も巨大です。
昭和45年(1970)当時は中央にあった枝が枯れたためか,大穴が開き,どの枝(5本)も斜上し,オオイタビが下がって異形をなしていたという記録があります。その後樹勢が衰え始め,平成9年(1997)にはオオイタビの除去が行われ,翌年には各大枝に支柱が設置されました。現在は以前よりも樹勢は回復しかけているものの,主幹部分を中心に傷みが激しく,また主幹から伸びた5本の大枝の枝先も枯死した部分が目立ち,若い枝が少ないため,依然として油断できない状況にあります。
関連:
所在地: 宇土市網津町

轟泉水道〔マス、落し口、樋管橋、水道塘、井戸〕  宇土市宮庄町、神馬町、石橋町ほか ( 熊本県 )

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轟泉水道〔マス、落し口、樋管橋、水道塘、井戸〕  宇土市宮庄町、神馬町、石橋町ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇土市役所前から宇土小学校の先まで進むと、轟水源の案内標識がある。石樋管の展示物は、轟水源にあった。
轟泉水道の石樋管は、これから水路を辿ると、宇土高校や門内町の武家屋敷表門前など通っていることがわかる。本町1丁目バス停近くに水道塘説明板があり、宇土高校へ路地を進むと、石蓋列やマスなど顕著に見学できる。

轟泉水道〔マス、落し口、樋管橋〕 ごうせん
宇土市 轟泉水道 瓦質管→馬門石の樋管 延長4.8㎞ マス:3尺四方、10数ヶ所 寛文3(1663)→明和6(1769)改修 市史跡 市教委 保存良好、残存数減少 宇土藩初代藩主・細川行孝/轟水源→(松橋焼の土管)→藩士の屋敷内の井戸、町人の共同井戸に引水(飲料水)/その後、管の傷みが激しくなり、5代藩主・興文が馬門石製の樋管に交換/国内最古級かつ現役の上水道/連結部に「がんぜき(一種の三和土)」を使用 2 A

轟泉水道 〔水道塘〕 ごうせん・すいどうとも
宇土市 轟泉水道 石樋管の石蓋列(馬門石) 長約100m 明和6(1769) 市史跡 市教委 石管、「がんぜき」が視認できる 地形の関係で、生活道路の中央部に轟泉水道の暗渠の石蓋が一列に並んでいる 2 B

宇土市デジタルミュージアムによる説明は、次のとおり。

轟水源地及び樋管  とどろきすいげんちおよびひかん

区分: 宇土市指定史跡(昭和33.3.14)
解説:
宇土町の水は飲用水に適しなかったため,寛文3年(1663)宇土藩初代藩主細川行孝の時,松橋焼の陶管を使った水道管を造り,轟水源から約3キロメートル離れた宇土の町中まで飲用水を引きました。
それから100年程経つと水道管の破損箇所から雨水が入り込み,水道水の濁りや水漏れが目立ってきたため,宇土藩5代藩主細川興文(おきのり)の時,馬門石をくりぬいた水道管に替える全面改修が行われました。
行孝代に建設され,興文代に改修された轟泉水道は,人々に飲用水をもたらしただけでなく,田畑の灌漑用水としても用いられました。現在も使われているこの水道は,使用中の上水道としては日本最古といわれています。
関連: 轟水源井戸・轟水源・紙芝居「轟泉水道物語」
所在地: 宇土市石橋町,神馬町,宮庄町他

轟 水 源  宇土市宮庄町 ( 熊本県 )

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轟 水 源  宇土市宮庄町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号宇土市街入口交差点から市街地へ430m、案内標識があり右手に見える。

轟水源 とどろき
宇土市 轟泉水道 湧水→上水道 湧水量3000t/日 寛文3(1663)? 市史跡/日本の名水100選 市教委 修景→日曜日には子供の遊び場として人気 国内最古級かつ現役の上水道の水源/今も水を汲みに来る人が多い 2 −A

宇土市デジタルミュージアムによる説明は、次のとおり。

轟水源  とどろきすいげん

区分: 宇土市指定史跡(昭和33.3.14)
解説:
大岳系山地東麓から湧き出す轟水源は,現在でも毎分4200リットルの湧水量があり,豊かでおいしい水を人々に提供しています。古くから名水として知られ,『肥後国誌』では肥後国三轟水の第1にあげられ「清冽の寒泉」と記されています。
轟水源は,現在まで使用されている上水道としては日本最古のものである轟泉水道の水源で,現在でも一部地域で利用されており,その水道取水のため,泉の下流を堰き止め,約150平方メートルの貯水池が造られています。轟水源地及び樋管として宇土市の史跡に指定されています。
昭和60年(1985)環境省選定「日本名水百選」に選ばれました。
関連: 水源地の一本杉・轟泉水道井戸・轟水源地及び樋管
所在地: 宇土市宮庄町

船 場 橋  宇土市船場町 ( 熊本県 )

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船 場 橋  宇土市船場町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号宇土市街入口交差点から市街地へ430m、案内標識があり右手に見える。

船場橋 せんば
宇土市 人道/船場川 石アーチ橋 (馬門石:迫石・高欄、安山岩:壁石) 長13.7m,S約10m(A),幅4.1m 慶応年間(1865〜68) 市史跡 市教委 保存状態良好/歴史的景観を保持 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/船場橋、雁木群、井戸、エノキの巨木が一体となって、歴史的空間を醸し出している/朱色の馬門石と、灰白色の安山岩の組み合わせが、他にはない景観を創出 1 A

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,070 船場橋 (架設当初名:石ノ瀬目鑑橋)
宇土市船場町
市指定文化財
船場川
橋長:13.3m  橋幅:3.6m  径間:10.0m  拱矢:2.2m
架設:文久元(1861)年頃
国道57号線、宇土市市街入口交差点から市街地へ430m、右手に見えます。

船場橋
「船場橋は長さ13.7m、幅4.1mの石造単一アーチ橋で、輪石35個を使った熊本式の石橋です。壁石は安山岩、高欄はピンク色の馬門石を使っています。この高欄親柱は表面がかなり風化していますが、船場橋の文字も刻まれています。路面は三和土で、現在は養生のために三和土層の上に馬門石敷を行なっています。」

沖塘(おきども)樋門群  宇城市氷川町網道 ( 熊本県 )

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沖塘(おきども)樋門群  宇城市氷川町網道

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇城市不知火町高良交差点から県道338号により砂川大橋の先の方まで南下すると、八間川河口付近に樋門群がある。
「沖塘樋門群」は、嘉永5年(1852)砂川尻新地の一部である網道新地の干拓によって造られた。
現在の写真は、砂川大橋側から向かった道順で載せるため、遺産リスト対象外の竜北樋門・第七樋門も含む樋門群や周りの様子で、詳しい説明は省く。

沖塘第一樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅12.2m(5門),奥行5.4m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る/平成20頃、石が割れたため一部積直し 施主:惣庄屋・下山群次/大鞘樋門群とよく似た構造/現存施設の建造年代は混合しているが、1ヶ所に7基の樋門が集中して残っているのは稀(7基中1基は完全改修→市の樋門番号に入っていない。実際には、二番と三番の間に現存) 4 A

沖塘第二樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.0m(3門),奥行3.4m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3 B

沖塘第三樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅7.0m(3門),奥行3.9m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3 B

沖塘第四樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅13.3m(5門),奥行4.7m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 保存状態良好/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上/5門の干拓樋門が現存最大級 2 A

沖塘第五樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.6m(3門),奥行3.5m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3 B

沖塘第六樋門 おきども
(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) (3門) 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3 B

(2015年9月6日 追 記)

遺産サイトから連絡があり、「9月2日、氷川町より回答があり、樋門の番号が確定しました。撮影された6基はいずれも正しいもので、ただし、順番が逆で、かつ、「第一」とされていたものはありません。」とのことであるので、樋門番号に対応する正しい写真は、遺産サイトの画像で確認をお願いしたい。

蓮仏の舟岩(岩見岩)  宇城市小川町東小川 ( 熊本県 )

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蓮仏の舟岩(岩見岩)  宇城市小川町東小川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇城市小川町から県道32号により東小川の上蓮仏バス停まで行くと、県道沿いの川岸側に「蓮仏の舟岩(岩見岩)」がある。

蓮仏の舟岩(岩見岩) れんぶつ
宇城市 舟繋石(自然岩) 約2m×2m,高約1.3m程度 中世〜江戸末期 小川町史p.299, 1017 蔓で覆われている/地蔵尊が祀られている かつて小舟をつないだ岩/山陰からの岩見船が岩にぶつかった(江戸末期)という伝承 3 C

寄田の底井樋  宇城市松橋町大野 ( 熊本県 )

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寄田の底井樋  宇城市松橋町大野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇城市役所東側の松橋高校を通り大野川に出ると、大野川改修改修記念公園があり、当時の「寄田の底井樋」石管は、ここに展示されている。寄田神社が対岸にある。
最初の通水に使用していた松の板材が、松橋郷土資料館に展示しているとあるが、これは訪ねていない。

寄田の底井樋 よっだ
宇城市 <浅川>/用水路 逆サイフォン式石管水路(凝灰岩) 長35m→3m以下 ,外寸0.96m×0.86m,内寸0.6m×0.5m 嘉永5(1852) 松橋町史p.927/現地解説板 移設・展示 施工:庄屋・松田喜七/轟泉水道の石管を参考にして造られた(継ぎ目に独自の充填剤) 3 C

現地説明板は、次のとおり。

寄田の底井樋とサイフォン
寄田の底井樋とは、旧浅川の川底を横断して、松橋高校側から対岸の寄田の方に通水する導水路のことで、東松崎への用水事業の最後の大事業として、石材を用いたサイフォン形式の水路で対岸に吹き上げる構造となっていた。
最初は松材の厚板を組んで通水したが、漏水や海水の混入もあって改築が必要となったことから、宇土市の轟水源を水源とする水道の石管を参考にし、石の継ぎ目の接着に苦心を重ね、寛永5年(1852)石材を用いた底井樋として通水した。この年は矢部町の通潤橋が完成する2年前のことであった。また、最初の通水に使用していた松の板材は、町立郷土資料館に展示している。
古保山付近で集められた水は、町文化財指定の穴井手(土揚げ場)を通って猫の迫溜池(御池)へ流れ込み旧大野川の久具堰で取水され、寄田の底井樋を通って東松崎地区を潤している。このように、これらの施設は、東松崎地区の住民の命を守る用水施設であり、昭和15年(1940)には東松崎住民が頌徳之碑を建立している。
松崎町郷土史研究会

当尾の道標  宇城市松橋町曲野 ( 熊本県 )

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当尾の道標  宇城市松橋町曲野

県道181号松橋町の東部、大鳥交差点手前から当尾小学校の方へ上がる。当尾原の四叉路から当尾小学校へ向かうと、学校手前のところに地蔵堂があり、新旧2本の道標があった。
ここは分岐道となっており、これから当尾山を越えて浦川内に出る「薩摩往還」の道と説明板があったが、道標の詳細は不明。