福岡県」タグアーカイブ

津江神社の大クス  八女市黒木町今 ( 福岡県 )

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津江神社の大クス  八女市黒木町今

八女市HPの「文化財(天然記念物)」による説明は、次のとおり。八女市黒木町の市街地、国道442号津江神社前交差点のところにある。

津江神社の大クス (つえじんじゃのおおくす)

平安最末期の嘉応元年(1169)、初代・猫尾城主源助能が津江神社の創建時に植栽されたと伝えられています。
樹齢約830年、幹周り約15m、樹高約40mを測ります。主幹通りは円錐形の根上がり樹形で、枝張りは全方向に伸長し極めて美しい樹冠を保っています。

八女市黒木の重要伝統的建造物群保存地区  八女市黒木町黒木 ( 福岡県 )

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八女市黒木の重要伝統的建造物群保存地区  八女市黒木町黒木

国指定文化財等データベースによる説明は、次のとおり。国道442号から入った黒木町今交差点近く、八女市黒木体育センター横の駐車場から、南へ行くとこの町並みがある。

重要伝統的建造物群保存地区

名称: 八女市黒木
ふりがな: やめしくろぎ
種別1: 在郷町
面積: 18.4
選定年月日: 2009.06.30(平成21.06.30)
選定基準1: (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
所在地: 福岡県八女市

解説文: 黒木町は、福岡県筑後地方の南部、矢部川と笠原川の合流点の北西に形成された。天正15年(1587)に現在の下町が、慶長年間に中町、上町が町立てされたと推定され、中井手用水も整備された。正徳4年(1714)には黒木廻水路が整備され、現在の町並みや水路の基礎ができた。<br>保存地区は、高度な水利技術で知られる矢部川の中流域に近世前期に成立した在郷町を中心とし、矢部川右岸の黒木町、矢部川の水面及び左岸に広がる農地を含む。近世後期以降の居蔵造の重厚な町家が残るとともに、矢部川の堰や木橋、町中を流れる水路、矢部川対岸の棚田など水利にまつわる歴史的風致を良く残す。

黒木の大藤  八女市黒木町黒木 ( 福岡県 )

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黒木の大藤  八女市黒木町黒木

八女市HPによる説明は、次のとおり。国道442号から入った黒木町今交差点近くの体育センター横駐車場から、南の市街地へ行くと素盞嗚神社がある。

黒木大藤

黒木大藤は、1395年、後征西将軍良成親王のお手植えと伝えられ、幾多の戦と大火に見舞われながらも、樹齢600年以上を数える今でも力強く、また、たくましく生き続ける長寿の藤として全国に知られるようになり、国の天然記念物に指定されています。
黒木の大藤がある素盞嗚神社には、約3,000㎡もの広大な藤棚が広がっており、毎年4月中旬ごろに開花し、1mを超える紫色の花房を垂下させます。
開花期間中に開催される黒木大藤まつりには、全国から約20万人もの人が訪れ、藤の美しさに感動されます。

国鉄黒木駅跡とC11形蒸気機関車  八女市黒木町今 ( 福岡県 )

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国鉄黒木駅跡とC11形蒸気機関車  八女市黒木町今

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道442号から入った黒木町今交差点近く、八女市黒木体育センター横の駐車場のところに展示されている。

黒 木 駅
黒木駅(くろきえき)は、かつて福岡県八女郡黒木町(現・八女市)大字今にあった、日本国有鉄道(国鉄)矢部線の駅(廃駅)である。開業時の告示による駅名の読みは、町名と同じ「くろぎ」であったが、それ以後の『停車場一覧』では一貫して「くろき」であった。
矢部線の終着駅で、駅所在地は黒木町の中心地区の北端部にあたり、廃止まで駅舎が残り委託駅員も配置されていた。この駅から先、線名の由来となった矢部村方面への延伸は成らなかった。

歴史
1945年(昭和20年)12月26日 – 矢部線全線開通と同時に開業。
1985年(昭和60年)4月1日 – 矢部線全線廃止に伴い廃駅。

現状
駅舎・ホーム等は撤去され、交差点となっている。当駅の北側近くにC11形蒸気機関車(61号機)が駅名標とともに静態保存されている。 近くの堀川バス「中町」バス停には、2011年(平成23年)5月現在も「黒木駅前←→黒木」の隣接停留所表記が残る。

中原トンネルから黒木駅跡までは道路化されており、黒木駅跡は八女市黒木体育センターとなっている。黒木駅跡を示す駅名標と国鉄C11形蒸気機関車が体育センターのすぐ横に設置されていたが、近年センター横の駐車場の整備に伴い移設され駅名標は新しいものになっている。

込野廻水路  八女市黒木町込野 ( 福岡県 )

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込野廻水路  八女市黒木町込野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道442号黒木町田本交差点西から矢部川の橋を渡り、川沿いの市道を下流へ下る。込野堰と取水口があるが、水門は改修工事中(ブルーシートを被せている)。先の市道も通れず、水路に水は流れていなかった。
国道442号を西へ戻り、湯辺田のかまや橋を渡り、県道715号に入る。ここに水路は流れ、「込野用水路記念碑」があった。

込野廻水路 こみの
八女市 矢部川(左岸) 迂回用の水路 長1382m 宝暦12(1762)以降 WEB/町教委 取水部はコンクリート堰に改修/水路は保存良好 柳川領/惣河内廻水路に対抗/込野堰→(惣河内堰を迂回) 2 C

大梅のヤブツバキ  黒木町木屋立石 ( 福岡県 )

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大梅のヤブツバキ  黒木町木屋立石

現地説明板は、次のとおり。国道442号黒木町木屋の光源寺バス停南に案内標識がある。大梅公民館近くに大梅天満神社がある。

天然記念物(植物)
大梅のヤブツバキ (町指定文化財)
指 定 昭和57年3月31日
所 定 黒木町大字木屋字立石
概 要
この椿は樹齢推定350年、樹高6.8m、枝張り東西10.5m、南北9.4m、胸高の幹廻りは1.6mもある大木である。
毎年春には真っ赤な美しい花を咲かせるみごとなヤブツバキである。
鑑賞木としてもすぐれているが、昔から天満宮の神木としても崇ばられている。
参 考
椿の品種は、2000種類以上といわれている。熱帯・亜熱帯地方に多く、日本での北限は青森県とされている。
江戸時代の武家屋敷には椿は植えていけないといわれていた。それは椿の花が散るとき、赤いまま、そっくり落ちるので首が落ちる不吉なものとされていた。
しかしこれはコジツケであり、日本では万葉の時代(千年以前)からめでたい花として鑑賞されていた。他の花に先きだって早く咲き春をよぶ樹(椿)として、宮中では榊の代用に使われていた。正月には松・竹・椿と用いられていたのが、後に中国式の松・竹・梅となったものである。
黒木町教育委員会

日向神ダム  八女市黒木町大渕 ( 福岡県 )

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日向神ダム  八女市黒木町大渕

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道442号沿いに日向神ダムはある。

日向神ダム

日向神ダム(ひゅうがみダム)は福岡県八女市黒木町大渕、一級河川・矢部川本流上流部に建設されたダムである。
福岡県が管理する高さ79.5メートルの重力式コンクリートダムで、福岡県が最初に施工・管理を行った都道府県営ダムであり、県営ダムとしては現在最も規模が大きいダムでもある。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害を契機に矢部川の治水と大牟田地域への電力供給を目的とした補助多目的ダムとして建設された。ダムによって形成された人造湖は日向神湖(ひゅうがみこ)と命名された。

笹又の道しるべ(西園橋三叉路)  八女市矢部村矢部 ( 福岡県 )

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笹又の道しるべ(西園橋三叉路)  八女市矢部村矢部

「笹又の道しるべ」は、現在、国道442号から県道801号が分岐する日向神ダム西園橋の角の崖地下に移設されてある。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。
HP「矢部村の歴史 」矢部村の開発の項による説明は、次のとおり。道しるべのもともとの建立場所・建立年代・建立者を推測されている。

矢部の旧道

矢部は、すべて奥深い山の中にある。
四方峻険な山々に囲まれ、矢部川とその支流に沿って 細長く伸びる谷間に狭い土地がへばりついている。矢部への道は、おそらく原始時代からその矢部川沿いに、谷を渡り岩間をつたい、杣道をたどって細々とつづいていたであろう。
かつて南北朝の動乱期は、天然の要害として、南朝方のとりでとなったのは必然であった。杣人や武人の通行も多かったであろうその道は、ほとんど尾根を越え、谷を渡って細々つづく杣道であった。都の竹の園で育たれた両親王や供奉の都人にとっては、地の果てに来た思いであったろうことは想像にかたくない。
最近でもはじめて矢部を訊ねて来た人が、この上に人家があるのだろうかと心細くなったと話す人もいる。昭和十六年に宗像郡から椎葉に嫁した小森ハルコ(六十九歳)は、こんな山中にまだ人の生活があるのかと心細くなり、あまりの淋しさに涙したことを昨日のことのように述懐している。

筑後路の主要道路を整備し、交通の便を図ったのは、慶長九年(一六〇四)、関ヶ原の功により筑後一円を領して柳川城に入った田中吉政である。吉政は、新田の開発や河川の改修にも力を入れたが、矢部川を境に北に方二間、高さ一間の塚に、榎、樫などを植えた一里塚を築き、南側に一里石を建てて柳川からの里程とした。
江戸時代になると、矢部村は矢部川をはさんで久留米藩と柳川藩の領有となった。道路は、矢部川をはさんで久留米道と柳川道があった。久留米道(矢部道)と柳川道ともに、両藩では最長の道路で、風光明媚ではあるが、峻険な坂道であった。大渕より上流は、峻峰群立して河岸に迫り、行手をさえぎり、通行や貢納物、産物の輸送はきわめて難渋したルートである。道路の開削、整備には、多くの辛酸と犠牲の歳月を要したことであろう。

久留米藩の矢部道のルートは、大渕の花巡りから八升蒔、平野を通り空室(うつろ)からこう仏谷(奥 日向神)を巡って鬼塚へ出たらしい。
柳川道は、柳川街道という。大渕の上月足から通称朝開き(おそらくここに朝日が一番早く当たったであろう)から九十九折の急坂を越え、日向神の黒岩トンネルの上おうむ岩を巡って椎葉に抜け、谷野から伊良道(いらどう)(蚪道(いらど))を通って西園、飯干、笹又、所野へとつづいていたようである。
蚪道の柳川道に十二里の一里石が建っている。のちに、椎葉から分岐して谷野に下り矢部川沿いに上って飯干、笹又へ通じる新道が出来たという。現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。

正保四年(一六四七)に「久留米領大道小道 之帳」という道路台帳のようなものが作られている。それによると、
「一、本分村より矢部村豊後境目迄六里六町、
但豊後ノ内梅野村へ出ル
此内川壱ツ 渡リ七所
黒木川ちんノ内(陣の内) 渡リ
広サ拾五間、深サ壱尺
同川塚瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐尺
但久留米領木屋村より柳川領木屋村へ渡ル
同川とくう瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐
尺、但柳川領木屋村より久留米領木屋村へ渡ル
同川花遶ノ渡リ、広サ拾三間、深サ弐尺、
但久留米領大渕村より柳川領大渕村へ出ル
同川鬼塚ノ渡リ、広サ七間、深サ壱尺五寸
但柳川領矢部村久留米領矢部村へ渡ル
同川三瀬ノ渡リ、広サ八間、深サ壱尺、但
久留米領矢部村より柳川領矢部村へ渡ル
同川柴庵ノ渡リ、広サ五間、深サ壱尺五寸
但柳川領矢部村より久留米領矢部村へ渡ル」
とある。

黒木町本分から矢部村柴庵まで七ヶ所の瀬を渡っていたが、そこには小さな板橋か丸太橋が かかっていたのであろう。また、久留米領から柳川領へ、柳川領から久留米領へ交互に入っているのもおもしろい。けわしい谷間がつづくこの地では、両藩の了解で、通行手形なしで行き来した生活優先の事情がよくわかる。
矢部村では、鬼塚と三瀬、柴庵の三ヶ所の渡りがある。鬼塚や柴庵の瀬は大体想像がつくが 三瀬とはどこであろうか、中間から下った谷の合流点あたりを三ッ渕というそうであるから、その辺りの瀬ではなかったろうか。
貞享元年(一六八四)北矢部柴庵から竹原峠を越えて日田郡梅野村(中津江村)に通じる「川沿新道、別名豊後別道」が開かれ、豊後への往来も便利になった。それまでは杣道であったのを官道として整備したのであろう。柴庵から八知山鉱口あたりを通って竹原へ上る近道がそれに当たるのではないかと思われる。

蚪道(十二里)所野(十三里)虎伏木(十四里)に残る一里石や西園橋の三又路に残る道しるべは、当時の交通、道路のようすを知るうえで貴重な史料であり、子孫に継承すべき史跡として大切に保存しなければならない。
なお、久留米領の笹又にあったといわれる一里塚や肥後境三国山の麓にあったという一里石や境木は今は見あたらない。…

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータに、次のとおり登載された。

矢部村矢部の道標 やべ、やべ
八女市 西園橋三叉路<矢部街道> 石道標 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「右 大ぶち/左 ひご、道」 2 C

矢部村の里塚石(十二・十三・十四里)  八女市矢部村蚪道ほか ( 福岡県 )

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矢部村の里塚石(十二・十三・十四里)  八女市矢部村蚪道ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。矢部支所前案内図や所在地図のとおりだが、国道沿いでないため場所がわかりにくい。詳しい場所説明をそれぞれに付記する。
資料図は、黒木町教育委員会「郷土の文化財 改訂第一集」昭和63年発行の102〜103頁を参照。  

(写真 1〜 5)  矢部村の里塚石(十二里) やべ
八女市 (蚪道)<矢部街道> 一里石(自然石) 1630年代以降? WEB 移設? (正面)「柳川より十二里」/「柳河」でなく「柳川」と標記/「十一石」までと全く形態が異なる→より後年の可能性 2 C
・国道442号日向神ダムの西園橋から県道801号に入り、少し行って右山手の蚪道集落への道を上がる。集落先に十二里石がある。方角的には、ダム鶴橋真上の南山側あたり。

(写真 6〜10)  矢部村の里塚石(十三里) やべ
八女市 (所野)<矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB 原位置? (正面)「柳川より十三里」/同上 1 C
・国道442号日向神ダムの最上流部。国道が対岸へ渡る橋の手前にそば処大駐車場がある。右手に入ると荘巌寺前に十三里石がある。こちらが旧矢部街道。

(写真11〜17)  矢部村の里塚石(十四里) やべ
八女市 (虎伏木)<矢部街道> 一里石(粗く整形) 1630年代以降? WEB 原位置? (正面)「柳川より十四里」/同上 1 C
・国道442号八女市矢部支所前からなお進む。紫庵バス停を過ぎ左からの川沿い市道に入る。このあたりが虎伏木。橋の先に案内標識がある。小沢を渡り田の道脇に十四里石がある。

黒木町の里塚石(七・九・拾・拾一里)  八女市黒木町土窪ほか ( 福岡県 )

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黒木町の里塚石(七・九・拾・拾一里)  八女市黒木町土窪ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。所在地図のとおりで、詳しい場所説明は省く。七里石のほかは、国道442号沿い。いずれも黒木町教育委員会の案内板や説明板が、文字が消えかかっているがある。
資料は、黒木町教育委員会「郷土の文化財 改訂第一集」昭和63年発行の102〜103頁を参照。八里石は河岸に埋没しているという話で、所在不明である。

(写真 1〜 4)  黒木町土窪の里塚石(七里) くろぎ、つちくぼ
八女市 <矢部街道> 一里石(道標兼) 1630年代以降? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「七里」、(右面)「左 木屋道」/同上/建立年については不明な点が多いので17世紀の道標と言える証拠はない 2 C
・国道442号黒木町田本交差点などから南へ矢部川の橋を渡り、旧矢部街道に出る。西へ戻り天満宮の所は上道を行く。丘上となるあたりの中島宅横角にこの里塚石がある。他は国道沿いでわかりやすい。

(写真 5〜 8)  黒木町木屋の里塚石(九里) くろぎ、こや
八女市 <矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 移設→個人宅内 (正面)「九里」/同上 4 C

(写真 9〜12)  黒木町大淵の里塚石(拾里) くろぎ、おおぶち
八女市 <矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 原位置? (正面)「拾里」/同上 1 C

(写真13〜16)  黒木町大淵の里塚石(拾一里) くろぎ、おおぶち
八女市 (上月足)<矢部街道> 一里石 1630年代以降? WEB(みさき道人) 原位置? (正面)「拾一里」/同上 1 C