福岡県」タグアーカイブ

諸富津地先の荒籠  佐賀市諸富町諸富津 ( 福岡県 )

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諸富津地先の荒籠  佐賀市諸富町諸富津

国土交通省九州地方整備局 筑後川工事事務所発行冊子「筑後川 治水・歴史編 歴史散策」9頁の「荒籠」。3枚の写真が掲載され、筑後川交流館はなむねにも同頁が展示されていた。
1枚目は●大川市海道島付近右岸。これは「海道島百間荒籠」で、周知のことである。2枚目は●諸富町諸富橋下流左岸。3枚目は●諸富町諸富橋上流左岸とあったので、2,3枚目の荒籠を現地確認に行った。

筑後川の右岸、佐賀市側の諸富町諸富橋近くには、橋の下流・上流とも大小の荒籠が多く見られる。写真で報告するが、「歴史散策」2枚目●諸富町諸富橋下流左岸は、私の撮影写真では、イメージ4,5だろう。3枚目は●諸富町諸富橋上流左岸は、イメージ8?あたりとなるだろう。
現地で全部は調べられず、築造年代など詳しくはわからない。石組みから近代のものと思われるものもある。

花宗水門と筑後川交流館はなむね  大川市向島 ( 福岡県 )

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花宗水門と筑後川交流館はなむね  大川市向島  

現地説明板及びblog筑後川・川の駅による説明は、次のとおり。県道767号花宗橋近くから入る。

一級河川筑後川  花宗水門  河口より6.4km

■高潮被害を防ぐ花宗水門
花宗川の合流付近は、地盤が低く、梅雨期の出水による浸水被害や、台風による高潮被害が度々受けてきました。そこで、そのような被害から、人々の暮らしを守るために、花宗水門の建設を計画し、平成14年3月に完成しました。
平常時は水門をあけておきますが、台風接近時など、高潮が発生すると予想される場合は、水門のゲートを閉め、高潮が花宗川へ侵入してくるのを防ぎます。      国土交通省 筑後川河川事務所

筑後川交流館はなむね

当館は筑後川の下流左岸にあり、国土交通省筑後川河川事務所大川出張所内資料館として公開されています。
すぐ目の前には筑後川本流へ花宗川が合流する花宗水門があり、また堤防に上がれば筑後川にかかる昇開橋(国指定重要文化財・機械遺産)、河口まで延々6kmも続くデレーケ導流堤(土木遺産)を展望することができます。
館内は高潮被害発生のしくみやその危険性に関する資料、防災、河川環境保全等の啓発や筑後川河口域の歴史や文化などの資料を展示しています。
[連絡先] 〒831−0005 福岡県大川市向島2631−2  TEL:0944−86−2516(大川出張所)

福厳寺門前橋  柳川市奥州町 ( 福岡県 )

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福厳寺門前橋  柳川市奥州町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。県道776号の一つ東側の市道を通っていて目にした。

№2,836 福厳寺門前橋

柳川市奥州町
橋長:4.4m  橋幅:2.9m  単径間桁橋

福巌寺
「福巌寺は立花家の菩提寺で、天正15年(1587)立花宗茂公により、岳父戸次道雪公の菩捷を弔うために建立されたものです。寺名は道雪公の法名福厳寺殿から名付けられたもので、梅岳山福厳寺と称し、筑前医王寺の緒庵和尚を迎えて開山としました。田中吉政公の代に一時この寺は壊されましたが、宗茂公が再び柳川の領主として返り咲き再建して菩提寺とし、寛文9年(1669)3代藩主立花忠茂公の代に、高僧鉄文を招いて臨済宗黄檗派に改め、今日の黄檗宗の法燈を伝えています。伽藍は、東に山門、北に本堂、南に天王殿、西に鐘鼓楼と開山堂が配されており、本堂前や西側には、柳川城址から移された板碑六地蔵もあります。また本堂裏には、歴代藩主を祀った切妻造・銅板葺の御霊屋3棟がコの字型に整然と並び、更に西側一帯は墓地となっています。この墓地には芥川賞作家長谷健、直木賞作家檀一雄や自由律の俳人木村緑平の墓があります。」

七ツ家「梅の木街道」  柳川市七ツ家 ( 福岡県 )

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七ツ家「梅の木街道」  柳川市七ツ家

柳川市七ツ家の県道767号沿い。約1kmが「梅の木街道」という名所。3月6日まだ見頃であった。柳川市HPによる紹介は、次のとおり。

七ツ家「梅の木街道」
慶長本土居跡に沿って約1kmも続く梅並木は、昭和54年に七ツ家地区の土地改良の完了を記念し、整備されました。水車小屋などもあり、市民の憩いの場になっています。
毎年、2月下旬の梅香薫る季節には「七ツ家梅の木街道公園梅祭」が行われ、遠来の多くのお客様で賑わいます。
場所  柳川市七ツ家 県道767号沿い

柳川市平成19年発行「柳川百選」18頁、四季を彩る名所には、㉔「梅の木街道 七ツ家」として選定され、掲載されている。干拓地の歴史に思いを馳せることができるところ。

永松荒籠  柳川市七ツ家 ( 福岡県 )

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永松荒籠  柳川市七ツ家

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道767号七ツ家交差点から南西にカントリーエレベータを通り、間の筑後川海岸堤防へ出る。荒籠はここにある。

永松荒籠 ながまつ、あらこ
柳川市 筑後川(左岸) 石水制 長約260m 江戸中期 市教委 保存状態良好(矢穴跡の残る石材も混じる) 筑後川の荒籠群の中で現存最大/最河口部に位置する 2 A

柳川市平成19年発行「柳川百選」2頁、宝の海・有明海の項には、写しのとおり③「有明海佐賀福岡両県漁場境界標石柱と永松荒籠」久々原・海岸堤防付近として掲載されている。
広報やながわ2009年4月号にも、同じ記事と写真がある。
http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/library/download/shisei02/20090401/09040114.pdf

(2016年11月2日 追 記)
この件は、コメントのとおり。”みなくるSAGA” 2016年10月28日 デ・レイケ導流堤の真の写真と永松荒籠「▼ 筑後川改修図と永松荒籠」の考察を参照。実際に現在、「堤防の下に現存する永松荒籠」の画像を最後に転載させてもらう。
http://minakuru.area9.jp/image/927D8CE390EC89FC8F43907D82C689698FBC8D72E2C48251.pdf
本間雄治氏の研究小論文「真の導流堤と永松荒籠」も、参考に載せる。

遺産サイトの見解は、「このような形で残っていても仕方がありませんので、リストから削除しました。それに伴い、福岡県の解説も一部書き換えました。」となった。
本ブログ記事は、地元に今後の誤解のないようこの経過を記し、当分はそのままとする。

(2016年11月12日 追 記)
荒籠について、長崎市の入江氏から次メールによる教示があり、江戸時代の治水工事参考図を追加する。
「コメントに筑後川の荒籠が書かれていたので、江戸時代の治水工事の色々について書かれた書物を紹介します。『算法地方大成 四』という書物で、その中に添付した図があります。参考にしてください。
荒籠は「あらこ」ではなく「あらご」ではないでしょうか。」

瀬高門外の猿田彦大神道標  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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瀬高門外の猿田彦大神道標  柳川市三橋町今古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街の中心部から国道
208号へ抜ける藤吉交差点の水路脇にある。最後の写真は、その手前にある「瀬高門址」石柱。

瀬高門外の猿田彦大神道標 せたか
柳川市 <瀬高街道・三池街道> 石道標 高140㎝ 文政11(1828) 市教委 移設→C製の大型台石 (右面)「すぐ北 せたか道」、(左面)「右西に やな河まち/すぐ右 ミケ道」/正面に「猿田彦大神」と陰刻 2 C

細工町の道標  柳川市細工町 ( 福岡県 )

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細工町の道標  柳川市細工町                     
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街の中心部、県道770号京町交差点から細工町通りに入り、藤吉交差点へ行く大通りに出た細工町交差点角にある。これが街道の道。

細工町の道標 さいく
柳川市 <瀬高街道・三池街道> 石道標(尖頭角柱) 高100㎝,幅29㎝,厚24㎝ 1630年代以降? 市教委 平成20に再建立 (正面)「左 出橋通り」、(右面)「右 瀬高通り」/以後、同上(柳川藩では1630年代に道標・一里石の整備を始めるので、もし初代の道標が残っているとすれば、この時期まで建立年が遡ることはあり得る(下記の一里石とほぼ同形状)/現在の道標は城下町の町割りに適合している→城下町が今の姿になったのは1790年代(それ以前の絵図はない)) 2 C

札の辻の道標  柳川市辻町 ( 福岡県 )

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札の辻の道標  柳川市辻町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街の中心部、県道770号辻町交差点角にある。

札の辻の道標 ふだのつじ
柳川市 <柳川藩における街道の起点> 石道標(尖頭角柱) 高約1m 1630年代以降 市教委/WEB 下部折損/移設、ステンレス棒で囲う (正面)「右 出橋通り」、(右面)「左 瀬高門通り」/柳川藩では1630年代に道標・一里石の整備を始めるので、もし初代の道標が残っているとすれば、この時期まで建立年が遡ることはあり得る(下記の一里石とほぼ同形状)/現在の道標は城下町の町割りに適合している→城下町が今の姿になったのは1790年代(それ以前の絵図はない) 3 C

今古賀の樋門併設石橋  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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今古賀の樋門併設石橋  柳川市三橋町今古賀

国道208号今古賀バス停近く、ジョイフル柳川店の南側の細い道を70mほどまっすぐ進む。内村宅の正門左奥に「常夜灯の道標」(下部に地名を刻む)が見える。
今古賀の「常夜灯の道標」は、 https://misakimichi.com/archives/4373 参照

前回、この常夜灯を探したとき石橋を通ったが、場所が今古賀のどこだったか思い出せないため再確認に行った。場所は所在図のとおり。内村宅先にメゾンひまわりがあり、その先の水路に架かる石橋であった。樋門併設で珍しいらしい。

三橋町中山の二里石  柳川市三橋町中山 ( 福岡県 )

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三橋町中山の二里石  柳川市三橋町中山

現地説明板は、次のとおり。船小屋へ向かう県道96号中山の大藤交差点の元徳稲荷大明神の前にある。

二 里 石   所在地:柳川市三橋町中山

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は、慶長6年(1601)に筑後33万石の領主として柳川城に入りました。吉政は柳川城の大掛かりな改修や長大な干拓堤防(慶長本土居)の築造、柳川城と支城の久留米城とを結ぶ通称田中道を初めとする幹線道路の整備などを行いましたが、筑後全域の道路に柳河辻町の札の辻ノ辻の標石(現在の柳川市辻町交差点)を基点とする一里ごとの標識を置きました。標識として、瀬高道、三池道など筑後南部には標石(一里石)が建てられ、田中道(久留米往還)など筑後北部には塚(一里塚)が造られました。

この二里石は、柳川から矢部川沿いに豊後国(大分県)に向かう道路に置かれたもので、川に近い二里石付近は堤防上に道路がつくられいました。手前の一里石は久末にあります。この道は二里石の先で二手に分かれ、もう一方は現在の筑後市を経由して久留米に向かっています。逆に中山から柳川に向かうと、柳川から肥後、薩摩に向かう街道に合流します。そのため、江戸時代の中山周辺は人の往来が盛んであったと考えられます。
当時の二里石は大正期に堤防を低めた際に失われ、現在の二里石は昭和57年に地元有志によりほぼ元の位置に復元されたものです。          平成22年3月   柳川市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストに、次のとおりデータが登載された。

三橋町中山の里塚石(二里) みつはし、なかやま
柳川市 <瀬高街道> 一里石(尖頭角柱) 1630年代以降 WEB(みさき道人) 昭和57復元(大正期に滅失) (正面)「二里」/一里石と記載内容が異なるのは、時代が下るせいなのか、一里石のみ別表記としたのかは不明 4 C