三橋町中山の二里石 柳川市三橋町中山
現地説明板は、次のとおり。船小屋へ向かう県道96号中山の大藤交差点の元徳稲荷大明神の前にある。
二 里 石 所在地:柳川市三橋町中山
関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は、慶長6年(1601)に筑後33万石の領主として柳川城に入りました。吉政は柳川城の大掛かりな改修や長大な干拓堤防(慶長本土居)の築造、柳川城と支城の久留米城とを結ぶ通称田中道を初めとする幹線道路の整備などを行いましたが、筑後全域の道路に柳河辻町の札の辻ノ辻の標石(現在の柳川市辻町交差点)を基点とする一里ごとの標識を置きました。標識として、瀬高道、三池道など筑後南部には標石(一里石)が建てられ、田中道(久留米往還)など筑後北部には塚(一里塚)が造られました。
この二里石は、柳川から矢部川沿いに豊後国(大分県)に向かう道路に置かれたもので、川に近い二里石付近は堤防上に道路がつくられいました。手前の一里石は久末にあります。この道は二里石の先で二手に分かれ、もう一方は現在の筑後市を経由して久留米に向かっています。逆に中山から柳川に向かうと、柳川から肥後、薩摩に向かう街道に合流します。そのため、江戸時代の中山周辺は人の往来が盛んであったと考えられます。
当時の二里石は大正期に堤防を低めた際に失われ、現在の二里石は昭和57年に地元有志によりほぼ元の位置に復元されたものです。 平成22年3月 柳川市
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストに、次のとおりデータが登載された。
三橋町中山の里塚石(二里) みつはし、なかやま
柳川市 <瀬高街道> 一里石(尖頭角柱) 1630年代以降 WEB(みさき道人) 昭和57復元(大正期に滅失) (正面)「二里」/一里石と記載内容が異なるのは、時代が下るせいなのか、一里石のみ別表記としたのかは不明 4 C